2010年代、写真はどこへ行く?[前編]/菊地成孔×伊藤俊治 対談連載 vol.13
──そうですね。フィルムからデジタルになった時点で一度それが起こり、さらにInstagramの時代にはアプリが勝手にレタッチしてくれるんですよね。
I「今の話を踏まえて、例えば今まではジャーナリズムの世界には写真家がきちんといて、特派員として戦争やテロの現場に赴いて写真を撮っていた。けれど、今のメディアを見ればわかるように、フォトジャーナリズムの世界からプロフェッショナリズムが消えてしまって、事故に遭った人や目撃者がそのまま写真を撮って、それが放送・掲載されてしまうという、当事者だけが示せる新しいリアリティがありますよね。そういうことも、今までの写真では考えられませんでしたね。それから今、国立新美術館で展覧会を開催中のアンドレアス・グルスキーは、1990年代初めから活発に写真を発表し、2001年のMoMAでの個展で脚光を浴びているんだけれど、彼が本格的に大画面でデジタルを駆使し始めたのはそんなに古いことではないんです。チラシにも使われている「スーパーカミオカンデ」(岐阜県にあるニュートリノ検出装置)の写真も、現実のように見えながら、何百枚もの高精細の画像を組み合わせて「作って」いるんですよね。その一方で、ブレ、アレ、ボケのようなプロフェッショナルの写真では退けられていた要素をどんどん入れ込んで、わざとアマチュアのような写真を撮っているヴォルフガング・ティルマンスのような人たちもたくさん出てきているわけでしょう。多様化が進行していると思います。今プロフェッショナルの話をしましたが、Instagramに代表されるような一般の人たちの動きは彼らも当然感知しているわけで、自分がプロとしてどう再定義できるか、アマチュアにはできない形でやっていく、というのは一つの道ではあると思いますね」
K「どんな情報もフラットに、無料になっていく中で、いったん曖昧になったプロフェッショナリズムが再び明確になったんですよね。音楽もそうですが、誰でも作れるようになってしまったので、要は楽器が弾けるなどの手作業で差別化していく傾向はありますね。今は歌が上手い、ダンスが上手い、楽器が弾ける、などの身体性しか価値を持たない。たとえばダンスバトル、クラシック音楽なら超絶技巧に圧倒されるわけです。なので作曲が上手かったり、よくプロデュースされていたり、というようなプロフェッショナリズムは瀕死の状態ですよ」
I「写真も、ダンス的な身体性ではないものの、身体感覚がこもりやすいメディアだと思いますよ。荒木さんや森山さんの写真には身体性そのものが表現されている。さっきの「てにをは」の話に関連させると、Instagramは別にして、写真は客観的なメディアだと思われていたけれど、新しいデジタルテクノロジーによって、言語以前に戻っているところがなきにしもあらずです。今までの写真には、基本的に言語をもとにした明確なテーマやコンセプトがありましたが、最近の写真は、無意味で平凡で日常的な出来事や動作を注視するんですよね。自分の周りのありふれたものがどんな意味を持つのか、自明のものにせず写真で考えようとか、シンプルなものを特別なものに変えたいとか、コンセプトのずっと手前で模索しているような気配があります。これは女性の写真家に多い傾向ですが、曖昧さや両義的なものを大切にしようとしている。触覚的で生理的で、言語以前と言ったけれど、盲人の撮る写真に似ているんです。視線を明確にして対象に突き刺すのではなく、目を瞑りながら撮っているような。ユジェン・バフチャルというスロヴェニアの写真家がいるのですが、目は見えないながら周りの空気や気配を撮る。目に見えない世界を撮るとか、目に見えなくなってしまった世界を撮るとか、まさにそういう感じなんですよね。この間まで原美術館で展覧会をやっていたソフィ・カルも、盲目性をテーマにしたシリーズを撮っている。強い関連性はないけれど、2010年代の写真を見ていると、知覚の有り様が切り替わってきているかな、という感じがします」
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