2010年代、写真はどこへ行く?[前編]/菊地成孔×伊藤俊治 対談連載 vol.13 | Numero TOKYO - Part 2
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2010年代、写真はどこへ行く?[前編]/菊地成孔×伊藤俊治 対談連載 vol.13

──アーティストが宣伝用に使用する写真も、もはやプロに撮ってもらう必要がなくなったりするのでしょうか。
 
菊地成孔(以下K)「今度プロデュースするアルバムでは、カメラマンに頼む余裕がないから、とジャケット用の写真を僕が撮ることになりましたよ。僕がInstagramについて興味があったのは、SNSが浸透すると、コメントをつけたり批評をしたり、文章は民全員に広がっていくじゃないですか。そうすると、よく言われるソシュールの共時性というやつで、言葉がどんどん壊れ、水が低きに流れていく。たとえばしっかり文学修行をした水村早苗さんのような文章に対して、スランギーな街の文章がどんどん生まれている。絵文字も入ってくるし、「てにをは」がおかしいし、誤字もあって、つまりカジュアルな言葉ですよね。僕も物書きをやっていますが、ちゃんと書くと面倒くさい文章だと言われ、Twitterのような文章を書くと読みやすいと言われるんです」
 
──咀嚼しやすいということですか?
 
K「ブログやTwitterのフォームからは文章力が見えにくいですよね。活字になれば、プロの活字もアマの活字も形は一緒ですし。昔のガリ版刷りの同人誌のように、製本の段階からアマチュアリズムが入っていてプロとの差がはっきりわかる時代からすると、要らない強度が生まれてしまった。雑誌のページのようなメディアにも見えるけれど、内実は下がってしまったと思うんですよね。でも下がったと見るのは上から目線で、これは共時性であって。言葉が「ご指導ご鞭撻、お願い申し上げ奉り候」から「よろしくお願いしまーす」に変わっていくのは当たり前なので、たとえ「てにをは」が狂ったところで伝わってしまう。僕を含め最近の物書きは、敢えてアマチュアブロガーの不完全な文章の方へ向かっていますよ。とはいえ周到に諧謔的にやるのではなく、自分の気持ちを彼らの状態に移入すると、自然にそういう文章になるんですよね。それに対し、Instagramが発達すると、水が低きに流れていくのとは逆に、水準が上がっていて。全部がプロ級になってしまったと思うんですよ。そこが鮮やかだな、と思いますね」
 
──文章と写真とは逆方向に向かっている、と。
 
K「そう。ただ僕は、写真がやっと料理と同じ状態になってきたと思うんです。調理器具が発達して、プロフェッショナルが作る料理も食べるけれど、ほとんどは自宅で作ったものを食べ、その中にはプロはだしの人もいて。食材や調理器具さえ一般化すれば、レストランと同じものも作れる、というような感じですよね。写真は昔は特権的でありがたいものだったと思うのですが」
 
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