芸術家 新城大地郎インタビュー「問いながら書き続けることが存在証明」
伝統的な書を軸に表現するアーティスト、新城大地郎。沖縄・宮古島に生まれ、禅僧で民俗学者の祖父のもと幼少期から親しんできた禅の思想が育くんだ型にはまらない書道家の自由な創作活動に触れる。
書くことは、自分であること
──書道に興味を持ち始めたきっかけは?
「書道教室に通い始めた4、5歳の頃から、書道は食べる、寝るに次ぐくらい生活の一部だったし、好きでした。書くという行為そのものが精神安定剤のような重要な存在だったと、大きくなるにつれて実感しています」
──子供の頃から既に書道は不可欠だったのですね。書くことは楽しかったのでしょうか?
「習っていた時は、承認欲求のような、美しい文字を書いて褒められ、コンクールに出して評価されたいという一つの目標があったから続けていたのもあるし、きっと楽しかったんだと思います。今は楽しさとは違う豊かさがあります」
──どんな豊かさなのでしょう?
「常に自分でいるんだけど、もっと純粋でいられる時間であり、それを確かめるために書いています。 歳を重ねるにつれ、感覚もどんどん変化していきますが、書くことは、社会に対しての違和感や、社会に存在している自分への違和感を残していく、分身を投影するような作業です。変わっていくものに対しての普遍的なものを探しているのかもしれません。だから書き続けるんだと思います」
──書いている時は無心の状態ですか?
「無になりたいです。書き続けていくと、例えば、ランナーズハイと呼ばれるような限界を超えた先にある、自分の意識に囚われない状態というか、そこに入れたら本物が出てくるような気がします。考えながら書くと、やはり考えている文字になってしまいます」
──作為的になるということ?
「常に矛盾との葛藤ですが、文字というモチーフを選んでいる時点で作為があり、矛盾は発生しています。ただその先は作為がないものを生み出したい。そこに行くには常に問いの連続です。幼少期から禅僧の祖父の元で、禅の教えに触れてきたので、禅問答というか、僕の作品の背景にはそういう禅の思想があるかもしれません」
見えないけど存在している文字
──具体的な作品について伺います。この真っ黒なキャンバスには何が書かれているのでしょうか?
「存在の<在>と書いてあります。これは、まず墨で黒いキャンバスを作り、その上にさらに濃い墨で書きました。光によって見え方が微妙に変化しますが、なかなか見えにくい。これは書く文字に作為があるかという話にも関連しますが、思考したり、本を読んだり、ニュースを見たりと、言葉は誰にでも共通ですが、同じ言葉も捉え方によって全く異なります。僕の思っている<在>と人それぞれが思っている<在>では全然違う。文字を書くこと自体は直接的な表現ですが、何らかのきっかけによってモチーフを選び、自分の思う、本当の<在>という文字はなんだろうと、自分の文字を探し、頭で思考できないから書く」
──<在>という文字を選んだ理由は?そこにはどんな意味が込められているのでしょうか?
「『見ようと思わないと見えない、存在していないけど存在している』ということを表現しました。不在という文字も書きましたが、在るけどない、ないけど在る。常に疑う。僕が創作のテーマにしている<不立文字>という禅の言葉があります。これは文字が立たない、存在しないという意味で、悟りは言葉や文字で伝えられるものではない、つまり疑えということです。文字の有能性を認めながらも、その文字が本当にそこに存在しているのか、その意味は本当にあるのか、自分に対して自身の生き方を問えということ。文字に関わらず全てにおいて、問いて、問いて、自分の存在を探すという悟りへの道です。そうやって世の中に対する違和感、政治家や偉いとされる人たちの発言が本当に正解なのか、嘘はないかを見極める。そうしないと、自分が自分でいられなくなるように思います」
──本当に信じられる真実はどこにあるのかを延々と探求する終わりのない旅のようですね。
「現代社会、日本全体を見てても感じますが、妙なエネルギーがあるように思います。大切なことがないがしろにされ、非常に良くないバランスで成立してしまっている。宮古にいると、外から資本が入ることで環境が変わってくるから、地元の人の生き方へのリスペクトがあるのか、そういうことに敏感になります。社会に対してなんらかのアクションは起こそうと思えば、文字はダイレクトにメッセージを伝えることが可能なモチーフなので、直接的に書けば簡単だと思います。だけど、見る人に思考させたり、混乱させた先に自由があるし、それぞれが自分に問いかけ、自分なりの答えを持ってほしい。できるだけ無垢な状態で作品を見てもらいたいと思っています」
──見る側としてはタイトルと照合して解釈をしたがるものかもしれません。
「近頃はわかりやすいことやスピードを優先して、より考えなくなり、活字離れとも言われています。わざわざ書く必要もない、文字も書かなくなっている時代に、墨を作って、一つの文字を何度も書くなんて不思議な行為かもしれません。ただ僕はそれでも書き残したい、書き続けないと、自分が消滅してしまう気がして、それが創作意欲にも繋がっています」
──生きることと書くことは一続きなんですね。
「気づくと30年も続けてきているのでそうかもしれません。ただ、書くだけではない表現とは何だろうと常に考えています。例えば、日本の舞踏芸術や、ジャクソン・ポロックやフランツ・クラインのようなアブストラクトアートや具体に見るアクションペインティングは、肉体と常に連動してるから、すごく正直な線が出ていると思います。書も自分の手を動かして書くという身体表現であり、一度書いたものと全く同じには書けないから、その時の思考や心情を瞬間的に切り取り、“今”をどうにか残したい」
──書くことにおいて肉体と連動するとはどんな感覚ですか?
「紙と自分は離れた存在だけど、書き続けていくと、一体になる瞬間があります。全てが1つになるような、ハグしてるような感覚。そして一体になった時にこそ、本当にいいものが生まれてるいるのだと思います。もちろん机上で筆先でも書けるかもしれませんが、僕はしっかり重力のままに落とし込みたいから床で書きます。 体から全てのエネルギーを落とさないと自分の表現にはなりません」
「石は風化し変化はするけど。その場に存在している。人が積んだ石垣も石が風雨から守ってくれているという自然との共生のロマンを感じます」
自然へのリスペクト
──石を墨で塗ったり、葉や木の年輪の版画と書を組み合わせた作品もありますが、これらの表現が生まれた経緯は?
「葉脈や年輪には、自分が追い求めていく線よりも魅力的なものが隠れています。季節、環境、気候によっても異なる、自然が作り上げた線は書こうと思っても書けません。自分では再現できない、嫉妬ですね。木は自分が木であることを知らないし、花も自分が美しいことを知らない。そこに大事な純粋さがあります」
<左>PALI GALLERYにて開催した個展「Unframedー形にならない形」で展示した芭蕉の版画作品。<右>年輪の版画と組み合わせた作品も制作。
──まさに作為なしの線ですね。
「年輪はその木が生きてきた証の線であり、石にあいた気泡もそうですが、絶対に超えられない師みたいなものです」
──文字と自然の造形物を組み合わせた作品は、自然への敬意ですか?それとも挑戦ですか?
「自然の線が現れた空間に自分が書いた人間の線を共存させたい。大きくいうと、自分の存在を自然界の中に埋めたい、同じ空間に共存させたい。そこに自分が存在している、生きていることの証みたいな。石を塗るという行為もそれに近いのかもしれません」
溶かしたにかわに少しずつすすを混ぜながら墨を作る。動物によって強度も異なるという。
創作への衝動と原動力
──大学卒業後、建築事務所に就職し、組織の枠組みの中にいる自分へのフラストレーションから作品を制作し始めたと、過去のインタビューで語っていますが、今は作家として自身で自由にコントロールできるようになりました。当時と比べ、創作に対峙する姿勢はどう変化しましたか?
「作家として、書くことへの強度は、すごく考え、模索しているところです。作家活動を始めた当時のフェーズとは違うところにいます。好きなものを作り続けられていることに対して、なぜ書いてるのか、何に対して疑問があったり、違和感があるのか。極端に言えば、文字は誰でも書けるものだし、しかも紙と筆と墨というすごくシンプルで伝統的なものだから、現代アートとしてなかなか認められにくい部分もあります。基本的には重ねられない一過性の素材なので、そのまま正直に出る、だからこそ奥ゆかしさがあったり、一番純度の高い表現ができるのだと思っています」
──次のフェーズとしての展開は?
「古典的な書を現代アートにどう昇華できるかが今の課題であり、目標です。例えば、版画にしたり、突き詰めていくと、墨を作るといったマテリアルの話になってきます。墨は作っていますが、今後は紙や筆も作るだろうし、そういうところに表現の厚みが出てくのではないかと思います。素材は探れば探るほど面白くて、作家としての欲は、いま素材という対象にかかっているかもしれません。それによって、いろいろな課題や社会の問題も見えてきますし」
──社会の問題というと?
「例えば、市販の炭がなぜ量産できるかといえば、化学物質によって保存可能だからです。本来はにかわという動物の皮と植物のすすだけでできています。人間の生活の中にも同じようなことが言えるような気がします。食べ物も日用品も移動もよりイージーになってきて、イージーになりすぎたら、その分、見失っていくものも多い。天然の墨は手間もかかるし、面倒臭いし、すぐ腐って扱いにくく大変だけど、自分で作るからこそわかる墨本来の変化の仕方や濃度による重さなど、作れば作るほどその奥深さに魅力を感じるんです」
──創作へのインスピレーションは?
「旅ですね。移動しないと、今の自分の置かれている環境や状態に安心してしまう。それほど強くないので、遠く旅した先々でフレッシュな感覚や刺激を受けたいという思いがあります。 都会には都会の魅力があり、違うエネルギーがあります。美術館やギャラリーが多く、そこに人が集まっているから、自分にとって必要な情報がある。宮古では得られない新鮮な時間ですが、でもずっとはいられないのは、都会のルールや選択肢の多さや人の流れに自分がさらわれそうになって息苦しさを感じてしまい、やっぱり自分の呼吸のリズムと環境をチューニングする時間が必要だから。旅から戻って宮古を見ると、より解像度が高く見えてきます」
黒の先にある造形
──ちなみに墨の黒という色の魅力はどこにありますか?どう黒を捉えていますか?
「色を重ねていった最終地点みたいな、黒にはいろんな黒があります。以前、島から生まれている、島の色を使ってみたいと思い、宮古の伝統工芸の宮古藍で書きましたが、これも黒と同じように深い。黒のように見えますが、何回も何回も染めて乾かした藍の色です。墨でも青墨と言って青っぽい墨とかあるし、墨を使うことはアイデンティティなんだと思います」
──同じ黒でも、水彩や油絵の黒を使ってみたいと思ったりもしますか?
「あります。油絵の黒は光沢があり、全然性質が違うから、墨では表現しきれない立体的な厚みのある表現ができそうで、触れてみたい気持ちはあります。一枚の絵に対して瞬発的な墨の表現とは異なる、油絵のように何度も重ねていくような、時間を積む、積層させた作品を作ってみたい感覚はあります」
──他の作家が表現した黒や作品に興味を持つこともありますか。
「白隠や仙厓の禅画や、民藝品に見る無名の作家さんの器は好きです。見る視点としては、フォルムだったり、記号のように文字が入ってくるという意味で、形とそこに込められた意図や哲学的な文脈を探しているかもしれません」
──ブルーノ・ムナーリの本の表紙の手の写真も飾ってありますね。
「僕はムナーリの思想が好きなんです。大人に騙されず子供の心を持ち続けること。子供の心を持ったまま大人になるのはすごく難しいけど、それは意識の問題で、どれだけ自分らしくいられるか。そこから生まれる作品が純粋で美しいし、自由があるように思います。うまく見せようとか、美しく見せようと、いろんな欲が生まれると、字は正直だから嘘っぽくなってしまう。僕の表現においては、きれいな字を書こうという段階は終わったので」
心地よい空間を求めて
──例えば、他の作品からなんらかの意図を感じた経験はありますか。
「前衛書道家の井上有一さんの作品を、以前ギャラリーで見たとき、そこには読めない文字が書かれていて、まるで彫刻を見ているような気がして、こんな自由な表現があり、平面なのに包み込まれるような感覚を受けました。後から母と書かれていることを知りましたが、そんな包容力のある彫刻のような墨の作品、生きた作品を作りたいと思わされた、勇気をくれた作家です。とても影響を受けているし、超えたいと思う存在です」
──デザインや建築で学んできたことも書に影響を及ぼしているのでしょうか。
「そういう意味では、書も空間を作るところからスタートします。何事もやっぱり居心地が大事だなというのは今も共通しています。そして、自分が居心地が良くなるために、この社会を変えたいという思いがあります」
──自分がいる空間=社会という空間という解釈ですか?
「大人になるに連れてどこか居心地が悪くなるから。究極は自分の居心地のいい場所を求めています。書く行為の時間は心地いいんですよね。この先、さらに心地よくあるために、社会の違和感をテーマに作品化していく。作品を通して見た人が考えて、さらに社会が居心地よくなる循環のような、大きく言うと、そういうことかもしれません」
Photos:Ai Miwa Edit, Interview&Text:Masumi Sasaki