米原康正主宰! 原宿発信のトークイベント「スナックよね。」開店 | Numero TOKYO - Part 2
Culture / Yonethropology

米原康正主宰! 原宿発信のトークイベント「スナックよね。」開店

米原康正によるトークイベント「スナックよね。」が東京ファッションテクノロジーラボにてスタートした。記念すべき第1回目は、スタイリストの中村のんをゲストに迎え、70年代の原宿やファッションの話題で盛り上がった。

70s (96 - 99)
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研ナオコ 表参道「レオン」側。Naoko Ken (actress)/1974/Goro Some

「サーファー」「ローラー族」…ファッションが生き方だった時代

米原「その頃、YMOが流行していて、ゲイっぽい雰囲気がカッコいいと言われた時期だったんですよ。僕も女言葉を使ってました(笑)。椿ハウスが終わったら、朝まで新宿二丁目で遊んで。『原宿のローラー族に対抗してオカマ族ってのを作ろうぜ』って、口紅を塗ったりしてたんですけど、1週間後に『これは違う』と気がついて(笑)」

中村「口紅塗ってたんだ(笑)」

米原「熊本から上京して、肩に力が入ってたから。地元の熊本でパンクに憧れて、Tシャツを破ったりしても、翌日、お母さんが『縫っておいたわよ』って(笑)。上京して学習院大学にパンクの服装で通ったら、全くモテなくて。不思議に思っていたら、1978、9年あたりは一大サーフィンブームだったんですよね」

中村「私もサーファーガールだった! サーキュラースカートにポニーテールでローラー族、次の日はファラ・フォーセットみたいなヘアスタイルにゴローズのアクセサリーでサーファーと、コロコロスタイルを変えてました」

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40年以上変わらない「ゴローズ」の窓。Young folks in Harajuku/1974/Goro Some

米原「僕も、テクノや、モッズや、サーファーのカッコもした。色々着たけれど、無理なものは無理なんだと気づいて、現在のスタイルに落ち着いたのは、80年代後半あたり」

中村「若い時にしていたファッションが何かと聞かれると、『サーファー』や『モッズ』など、カテゴリーで語れてましたよね。70年代は『ヒッピー』『フラワーチルドレン』『グラムロック』『50年代リバイバル』『サーファー』『パンク』。90年代なら『ギャル』『ヒップホップ』など、それぞれにカテゴリーがあった。今の時代はそんなふうに語れるファッションはあるのかしら?」

米原「今はバラバラですね。原宿系ファッションも、ここ2、3年はカワイイという言葉も使われなくなりました」

中村「ストリートから生まれたファッションは、グループから生まれるんですよね。ファッションに共感してた友達が増えて流行になる。いつの時代も自然発生したけれど、今はどうなんでしょう」

米原「1995年に『egg』というコギャル雑誌を編集したんだけど、その頃、安室奈美恵ちゃんがデビューして、メディアから『コギャルの神様』として崇められていて。でも、彼女は『私はコギャルのリーダーじゃなくて、彼女たちに影響されて今のスタイルになったんです』と言ってたのはカッコよかったな。面白い子たちが出現すると、メディアはそれを消費するからカルチャーになる前に、終わってしまう」

ドアマンにたこ焼きを差し入れした
“叩き上げVIP”

Text:Miho Matsuda
Edit:Masumi Sasaki

Profile

米原康正(Yasumasa Yonehara) 編集者、クリエイティブディレクター、フォトグラファー、DJ。世界で唯一チェキをメイン機材とするアーティストとして、幅広く活躍。中華圏での人気が高く、中国版 Twitter である「新浪微博(weibo)」でも235万人のフォロワーを有し、シューティングと DJ をセットにしたイベントでアジアを賑わせている。世界のストリート・シーンで注目される、ジャパニーズ・カルチャーを作品だけでなく自身の言葉で語れる日本人アーティストの一人。
中村のん(Non Nakamura)スタイリスト。東京生まれ、1970年14歳で原宿デビュー。17歳で日本のスタイリスト第1号である高橋靖子と出会い、桑沢デザイン研究所在学中よりアシスタントを務め、22歳で独立。以降、広告を中心に、雑誌、ステージ衣装など多岐に渡り活躍。2001年からはエッセイストとしても活躍。2014年と2015年に行われた写真展&トークイベント『70’s原風景 原宿』も話題に。

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