米原康正主宰! 原宿発信のトークイベント「スナックよね。」開店
米原康正によるトークイベント「スナックよね。」が東京ファッションテクノロジーラボにてスタートした。記念すべき第1回目は、スタイリストの中村のんをゲストに迎え、70年代の原宿やファッションの話題で盛り上がった。
かつては新しい文化の発信拠点だった原宿。今や観光地化が進み、カルチャー性が失われつつある。「どうしたら原宿にカルチャーを取り戻すことができるのか」をミッションに、トークショーと交流会(スナックタイム)の2部構成で行われる。記念すべき第1回は、原宿カルチャーの創成期をまとめた『70’ HARAJUKU』(小学館)を上梓したスタリスト・中村のんがゲスト。原宿とファッション業界を知り尽くすふたりの貴重なトークの一部をご紹介!
70年代、ファッションは原宿から始まった
米原康正「『スナックよね。』店主の米原です。僕が上京したのは1978年で、当時の原宿は敷居が高い街でした。1981年頃から、ロックンローラーや竹の子族が出現して、地元の人たちの街から、今や観光客向けの街に変わっていったんですが、その理由や今後の可能性を話し合う場所になればいいなということで、この企画が始まりました。今日はスタイリストの中村のんさんに、原宿の70年代について話を聞こうと思います。のんさんの原宿スタートはいつから?」
「MILK」「セントラルアパート」1階のアイドルご用達ブランド。Cute shop「MILK」/1975/Goro Some
中村のん「私は14歳の頃から。原宿ファッションの幕開けは70年代ですよね。1970年に『ミルク』、菊池武夫さんの『ビギ』、1971年に『ゴローズ』が登場し、雑誌『an・an』が創刊。当時、世田谷の自宅から日曜日は千駄ヶ谷に英語を習いに行っていたので、その足で原宿に通うようになったのが最初です」
米原「戦後から1964年の東京オリンピックまで代々木公園一帯に『ワシントンハイツ』という在日米軍の宿舎があり、原宿は米軍の街だったんですよね。僕は岩城晃一さん担当のライターだったので、彼に連れて行ってもらったのが最初なんだけど、今、ラフォーレ原宿がある場所には教会があったし、外国人向けのテーラーがあったし、『キディランド』も外国人の子ども向けにバービー人形を売ってました。僕の奥さんもスヌーピーのぬいぐるみ買いに来たみたいです」
「キディランド」は日本で最初にバービー人形を販売した店。Toy shop「KIDDY LAND」/1974/Alao Yokogi
中村「ビートルズが来日したときに、ジョン・レノンがホテルを抜け出して『オリエンタルバザー』に行ったというエピソードもありますよね。コープオリンピアのスーパーマーケット『ユアーズ』も、外国の食材を置いていました。でも、街のほとんどが住宅地で、竹下通りもとんちゃん通りも地元の商店街でした」
米原「伝説の喫茶店『レオン』も、普通の喫茶店だったんですよね」
中村「チーズケーキとコーヒーを売るような喫茶店ですよ。そこに、クリエイター、モデル、芸能人が集まって。私がレオンに通い始めたのは、17、8歳くらいの頃かな」
「レオン」の朝。「LEON」in the morning/1972/Goro Some
米原「当時、すでにスタイリストという職業はありました?」
中村「『an・an』の創刊と同時に、高橋靖子さんや原由美子さんがスタイリストとして活躍されていましたね。私は18歳で高橋靖子さんのアシスタントになったのが、この業界に入るきっかけです」
米原「高橋靖子さんといえば、デヴィッド・ボウイのスタイリングですよね」
中村「1970年代は、デヴィッド・ボウイが山本寛斎さんの服を着たり、フォトグラファーの鋤田正義さんがボウイやイギー・ポップの写真を撮ったりして」
米原「70年代は日本のクリエイターが、世界で活躍していた時代でした。ニューヨーク・ドールズのヘアも野村真一さんが手がけていたし、ジョン・レノンとオノヨーコの『ダブル・ファンタジー』も篠山紀信さんが撮影していた」
中村「スタイリストやコピーライターなどの横文字職業が脚光を浴びたのも70年代から80年代でした。当時は、石を投げればクリエイターに当たるような街でした」
Text:Miho Matsuda
Edit:Masumi Sasaki