池松壮亮インタビュー「人生や映画に対する欲望はすごくある」
旬な俳優、女優、アーティストやクリエイターが登場し、「ONとOFF」をテーマに自身のクリエイションについて語る連載「Talks」。vol.52は俳優、池松壮亮にインタビュー。
映画『私たちのハァハァ』(15)や、ドラマ『バイプレイヤーズ』などで知られる松居大悟監督最新作『君が君で君だ』は、キム・コッピ演じるヒロイン・ソンが憧れる人物になりきって過ごした3人の男たちの10年間を描いたクレイジーな純愛物語だ。自分の名前さえ捨てて愛する彼女を見守るのは、ブラッド・ピットになりきる男に扮した満島真之介、坂本龍馬になりきる男に扮した大倉孝二。そして、尾崎豊になりきる男に扮した池松壮亮だ。深さと静けさの中に底知れぬエネルギーを宿す俳優、池松壮亮に松居監督の描く世界の魅力について、また自身の欲望や愛情との向き合い方について聞いた。
型にはまらない、大人の放課後ストーリー
──『君が君で君だ』、こんなにピュアで気持ち悪くて面白い映画観たことないと思いました。松居監督のピュアネスが爆発していましたよね。
「今回は特にそれが浮き彫りになったというか。おそらく松居さんもオリジナル脚本で何をやるのかを考えたときに、自分の一番突出したもので勝負しようとしたんじゃないかと勝手に思っているんです」
──12年の舞台『リリオム』からこれまで数回ご一緒されていますが、松居監督の性質については、思うところあったのでしょうか。
「長い付き合いなので驚くことは人よりは少ないはずではあるんですけど、1年前に撮影して半年経って完成したものを観たときに、わかってはいたけれど想像以上に飛んでいて、型にハマっていなくて、乱暴で、面白かったです」
──男同士のわちゃわちゃ感が、時を止めてしまうという話でしたよね。ホモソーシャルって、大人にならないことを互いに許し合う関係という気もするので。
「本当に。放課後にしか許されない話だと思います。放課後ストーリーと言いますか。27歳(取材当時)の僕自身が共感するかと言ったら、はっきり言ってそれはないんです。僕はずっと群れることを拒んできたので。でも、学生の頃のあの感じはよく知っていて、松居さんはいつまで放課後ストーリーをやるつもりなんだろうと思いつつも、やっぱり、原風景としてハッとさせられるものを毎回持ってきてくれるので、それを割と面白がっている節はあります」
──大人になっても放課後のままのストーリーを真っ直ぐに出す人も、なかなかいないですよね。
「そうなんですよね。あの頃の思いとか感覚をテーマに映画をやる人なんて、そうそういないと思うんですよ。好きな人が好きな誰かになりきることを思いついたとしても、別に映画にしたいとは普通思わないですから。お互いいろんなところを通っていろんなところに迎合してきたつもりが、全く初心を失ってなかったというか、松居さんって面白いなと改めて思いました」
──そうおっしゃるということは、池松さん自身は自分の名前を失って彼女の好きな人になりきるくらい誰かを好きになるような経験はしていなさそうですね。
「好きな人が好きな誰かになりたいと思ったことは僕はないですね。もちろん、映画の中ではその当事者になるわけですから、現場ではむしろ松居さんよりも信じ切ってやっていましたけど、ふと我に返るとよくわからない感じはありました。でも、そういう感情は、おそらくあるんです」
──というと?
「ひとりの人間が人生をかけて信じる力ってものすごくて、動物の進化もそのひとつなのかもしれないけれど、たとえば女の人が男になりたいと信じ続ければ、たぶんチンチンが生えてくる。まぁ、実際生えたかどうかはわからないけど、そういうことって世界中で起こっていて、歴史が証明している。それが、今回は別人になるということだった。ましてや、自分が好きなわけでもない女性が好きな男性になりきるという」
受け入れてもらうではなく、受けとめるという愛し方
──本作では男性のロマンティシズムが狂気と紙一重のように描かれていますが、池松さんも、恋愛で妄想をしたり、盲信してしまったりしたことはありましたか?
「若い頃はあったかもしれないけど、その対象があまり対人には向いていなかった気がします。自分が大人になった頃を想像したりはしていましたけど。僕には高校時代までは野球があったり、映画があったり、何よりも大切なものがあったんです。むしろそっちに自分のイマジネーションを使ってましたね。日常的には、今一番やっちゃいけないことや、言っちゃいけないことを考えることも小さい頃から大好きでしたし。でも、もし好きな人に対して全てのパワーをもって自分の想像力を駆使していたら、彼らみたいになっていたかもしれない」
──欲望の対象が自分や仕事に向かってたんですね。
「仕事に関して言うと僕は欲望にだけ従ってきたところがあって、そこに欲望がありすぎたので、いわゆる三大欲という異性や食欲に対してはそんなに向かないんですよね。人生に対する欲望はすごくあるんだけど」
──自分自身がどう生きたいかという?
「うーん、難しいけど、割とそうかもしれないです。自分の人生をどう有意義に終わらせるのかを考えたときに、自分が何をして過ごすのかってことのほうが大事というか。だから、人生とか映画とか、そういうものに対しての欲望はすごくありますね」
──映画の中の彼らの受け入れてもらうことをすっ飛ばして、最初から好きな人を受け入れるという、ある種、無償の愛に近い感情については、理解できますか?
「経験したことはないけれども、僕も実は彼らの気持ちのほうがわかるところもあって、好きとか愛してるとかって誰も教えてくれなかったから自分で考えるしかなかったけど、好きということは自分の欲望で、その先に行き過ぎてしまう愛情表現もあって。好きって何だろう?と、そういうことを割と普段から考えていて。尾崎豊さんは、世界を愛することは世界を受けとめることだと言ったんです。だから、どちらかというと、全てを受けとめることのほうが、自分の中で、好きとか愛するというものに結びつきやすいかなとは思います」
言葉にならない何かを映画で探し続けること
──支配欲や破壊欲が、好きという言葉と結びつきやすく描かれがちですよね。実際、その人それぞれの持つ言葉の意味は違うと思うんですけど、ひとつのイメージになりがちというか。
「そうですね。人類が未だ答えを出していないところなのかもしれないけど、毎回思うのは、感情になる前の何かとか、言葉になる前の何かとか、感情になった後の何かとか、言葉の先にある何かとか、松居さんはそういうものにものすごく敏感で」
──繊細すぎて言葉にできない感じがありますよね。
「うん。だから松居さんの映画って、実は台詞や言葉に強度が全くないんです。そこに頼っていないというより、そもそも頼ることを知らないというか。なぜなら言葉を持っていないから(笑)。だから、言葉を武器にする世界、詩とか文芸とかだったら話にならないかもしれない。でも映画を撮るなかで、その言葉にできない答えを、たとえ見つからなかったとしても毎回探しに行くという松居さんのスタンスは、希望のようなものを感じますけどね。映画というものの」
──だからこそ、映画の中でエネルギーが爆発してるんですね。
「たとえば、『俺ウケるでしょ?』とか、『好きな人の好きな人になりきったら、超面白くない?』みたいなスタンスだったら、たぶん僕はこれだけ松居さんと仕事をしてこなかったと思うんです。でも、彼は動機がすごく純粋で、好きな人の好きな人になりたいとかそういうことを本当に思ってたりするんですよ。今までに聞いたこともないし、意味のわからないことを平気で言うんですよね」
──前作『アイスと雨音』でも、松居監督から「大きな命の塊を作りたい」と言われて困惑した、と役者さんたちが話してましたけど。
「わかるわけないですよ(笑)。ほんと、そういう人です」
好きな人に会おうともしない人たちの恋愛映画
──今回、衝撃の髪の毛を食べるシーンありましたが、あんなことは役者さんでもなかなか求められないですよね。
「そうなんです。しかもあれ人毛なんですよ。コッピさんの毛ではないですけど。撮影前に、松居さん家で10何時間打ち合わせをして、たぶん夜中の2時くらいに、友人でもある助監督から『人毛どうする?』と聞かれたんです。その人が言うには、そのとき僕は『コッピの髪? 食うよ。当たり前でしょ』って吐き捨てたらしいんですよ。でも僕は言ってなくて、現場で彼と大喧嘩になりました(笑)。『ありえないだろう!』と。しかも、夏場で、2週間くらいスタッフのおじさんたちが裸足で歩き回った床に落ちている髪を拾って食うという。臭くてしょうがないんです。ひどい目にあいました」
──けっこうタフなことをされていましたよね(笑)。日本映画ではあまり観ない光景だなと。
「そうですよね。普通、事務所が止めますよね。向日葵も食べさせられましたしね。階段落ちも自分でやりましたからね。やってみたら痛くてしょうがなくて」
──でも、不思議と3人の楽しくてたまらない感じが伝わってきました。
「何より大切なのは、普通の恋愛映画って結果を見せることに意味があるというか、愛し合うこととか、好きな相手と見つめ合う瞬間に価値があるとされてきたにも関わらず、これは好きな人に会おうともしない人たちの話ですからね。それはつまり、コッピさんを思っている彼らの時間を切り取るということで。要は、3人が放課後にどういう思いで時間を過ごしているのかが重要なんです。でも、やってみて思ったのは、みんな結果を見たがるけれども、実は誰かを思ってその人に会ってない時間のほうがよっぽどロマンティックなんじゃないかと。僕が恋愛映画に抵抗があるからかもしれないけど、あの男3人の時間がすごくロマンティックでいいなぁと思いました」
──3人いたからできたことなのかなとも思いましたけど。
「まぁそれはそうですね。2人でも成立しないし、ひとりならもっと成立しない。かと言って、3人でコッピさんを思ってオナニーをするみたいな方向にも、松居さんは飛ばないんです。松居さんを最大限に褒めると、純度の高い鬼才みたいな感じです」
仕事柄、執着はあえて自分で捨てにいく
──プライベートと仕事の切り替えは、はっきりしている方ですか?
「僕はあまり仕事を仕事と思ってなかったりするので、簡単に言えば家から出た瞬間からずっとオンです。ただ家だとオフみたいなことでもないし、今のこの状態が自分のオンかといえば、『どの口が言うんじゃ』って感じですし。申し訳ない答えですけど、切り替えようとも思っていないし、考えたことないですね。やっぱり、心と脳みそと体の全てを日々使っていますからね。そうなるとオンもオフもないというか」
──心と脳みそと体と口から出る言葉を常に意識的に合致させるって、エネルギーの消費量がすごそうですよね。
「漠然とそうありたいと10代、20代前半から思っていて。自分のフラットな状態をずっと探してはいたんですよね。今でも見つけた感じはしないですけど」
──じゃあ、何かにハマるとかもないんですか?
「本当にハマっていることがないんです。何年に1回、そろそろ趣味を見つけなくてはと手を伸ばして、1~2回で終わることはあります。仕事柄、執着を自分で捨てにいっているのかもしれない」
──あえてですか?
「はい。たとえばひとりの人の人生を2時間で描こうとすると、その人物は必ず何かに執着しているんですよ。そういうときは、自分の生涯をかけて振り絞るくらいのパワーが必要になってくる。普段から執着を使っていたら、そうなったときにもう大変なので。もし僕がこの映画をやりながら、ずっと趣味のことを考えていたらたぶんできていないだろうし。この仕事を選んでなければ多趣味だったかもしれないです。爽やかにサーフィンとかやっていたかもしれない(笑)」
──では家に帰ってすることといえば?
「脳みそが暴れすぎる瞬間があるので、まずお酒で脳みそをちょっとずつ殺しながら眠りにつきますね。それぞれ出番がありますからね、脳みそ、心、体の。そういうものをだいぶコントロールできるようになったんですけど、たまに暴走しますね」
──そういうときに、誰かと話すことで落ち着かせたりはしないんですか?
「あまり共有したいとも思わないんですよね。さっきの好きとか愛してるの話にもつながるかもしれないけど、僕は常に怒っているんですよ、たぶん。何かに対して常に怒っていて、それを他人にぶつけたり吐き出すことを自分に許せないんですよね。OLみたいにもできないですし。たまに聞いてほしいという気分になることはあるけど、たぶん1回もやったことがないです」
──監督や家族にも?
「ないですね。僕は12歳くらいでこの仕事を始めてしまったので、どんどん周りとの共通言語を失っていったんですよね。それが大きく影響している気がするんですけど、いつの間にか自分の感覚ばかり獲得していって、当時は福岡にいたので、普通の友達と共有できるわけもなく、いつしか親に対しても共有できないという感覚を持っていたので。いわゆる仕事のことに関して誰かに話したことはほとんどないんですよね。人から話を聞くのはけっこう好きなんですけど。怒りの感情も含めて」
──そういう人に対しては、どういうリアクションをするんですか?
「倍返しですね。『それはあなたの欲望だ!』みたいな」
──最後に、「僕が僕であるために」していることがあれば教えてください。それとも、そもそも僕が僕で僕だ、というタイプでしょうか。
「うーん、どっちもあると思います。割と傲慢だし、自分の思うようにしか進められないので、俺は俺で俺だみたいなところはあると思うんですけど、それをひた隠しにしながらも、僕が僕であるためにやっていることは……、尾崎豊の歌詞をなぞると、勝ち続けようとしていることじゃないでしょうか。自分の人生に対して」
──これまでの勝敗は?
「まぁ、だいたい半々くらいじゃないですかね(笑)」
映画『君が君で君だ』の情報はこちら
Photos:Kohey Kanno Styling:Babymix Hair&Makeup:Fujiu Jimi Interview&Text:Tomoko Ogawa Edit:Masumi Sasaki