2010年代、写真はどこへ行く?[後編]/菊地成孔×伊藤俊治 対談連載 vol.14 | Numero TOKYO
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2010年代、写真はどこへ行く?[後編]/菊地成孔×伊藤俊治 対談連載 vol.14

多彩な肩書きを持ち、音楽、映画、グルメ、ファッション、格闘技などボーダレスな見識を披露するアーティスト菊地成孔と、写真、先端芸術からバリ島文化まで幅広く専門とする、美術史家にして東京芸術大学美術学部教授の伊藤俊治。アカデミックな2人が、世の中のニュースや日常の出来事、氷山のほんの一角の話題をダイナミックに切り崩しディープに展開する、かなり知的な四方山話。

 

Vol.14 2010年代、写真はどこへ行く?[後編]
Instagramといったアプリによって、誰もがアーティスティックな写真をしかもスマホでカスタマイズできるようになった昨今。スマホやデジカメで撮影した写真はSNSやブログ用として次々にアップされる。それ以外、かつてそうだったようにプリントしてアルバムに貼られたり、部屋に飾られることはあるのだろうか?
写真の価値観が変化している中、機能を駆使すればプロ顔負けの写真を撮れる2010年代の写真表現のあり方を考察する。

 

快楽性が高く“癒して”くれるデジタル写真
 
──ところで、菊地さんはよく写真を撮るのでしょうか。
 
菊地成孔(以下K)「四六時中、撮っていますね。どこのレストランに行った、というようないわゆるブログ用ですが。こんなにみんなが写真を好きなのは、肉眼で見るより綺麗に撮れるからでしょうね。フィルム時代よりも快楽性が高い。フィルムの頃は、みんな緊張していて抜けの悪い表情をした写真が一週間後に現像されてきたりしていたのが、デジカメはどんどん撮っていっていらない写真を捨てることもできますし。発光だけ見るから、そこそこみんな良く見える」
 
伊藤俊治(以下I)「撮影行為の楽しさが発掘されているんだと思いますね。写真の記録性や表現性という面よりも、コミュニケーションとしての写真が重要視されてきている」
 
K「まだデジタルカメラができて一世代経っていないので、子供が成人してから「これは幼稚園の入園式の写真」と見せてやるようなことが、果たしてデジタルカメラでも成り立つのかどうか。僕はデジタルカメラで写真を撮り始めたのが2006年なのですが、当時のものから見返していくとけっこう面白いですね。iPhotoを立ち上げて2006年からカーソルを引いていくと、5,6年が一気に動くんですよ。そうすると自分の顔も知り合いの顔も変わっていくし、一方で同じ店の同じ煮込みが何度も現れたり(笑)。気がつくと過去のこと、昨日のことでさえよく覚えていないというメンタリティの中で、一週間分の写真を見返すと、「今週はこんなことがあったのか」と。しかも大体、悪い気持ちにはならないんですよね。寂寞とした気持ちでつまらない日々を死に向かって過ごしているイメージが(笑)、一週間の写真を見ると救われるんです。「あいつと酒を飲んだな」とか「あそこに遊びに行ったな」とか」
 
I「自分が写った写真って、あまり自分では持っていないじゃないですか。僕はこの間60歳になりましたが、パーティーを開いてもらうにあたり、みんなが顔認識の機能を駆使して僕が写っている写真を集めてくれたのね。大学で教え始めて25年くらいになるから、プリントをスキャンしたもの含め、四半世紀分の僕の写真がスライドショーで切り替わっていくんだけれど、それは驚異的な光景でしたね。走馬灯のような写真感覚って、僕らの時代特有のものだと思いました。それこそ死に向かって一直線というような感じがする(笑)」
 
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