津野青嵐「Spilling Body」が問う、“見られる身体”のその先

美容医療や画像加工の進化によって、私たちはかつてないほど身体を「変えられるもの」として見るようになった。だが、果たして身体とは思いどおりにコントロールすべきものなのだろうか。精神科の看護師として働きながら、ファッション、アート、研究を横断し、「身体との付き合い方」を探究してきたアーティスト、津野青嵐。東京・神宮前のEUKARYOTEで開催中の個展「Spilling Body」では、ドレス作品とともに、映像、ドローイング、コラージュ、蜜蝋を使った版画などを展示する。介護や精神科看護の現場での人との関わり、ファットな身体、そして、思いどおりには扱えない素材。そこから津野が探るのは、身体を理想の形へ近づけることとは異なる、もうひとつの身体との関係だ。
「こぼれる身体」とは?
──今回の個展のタイトルは「Spilling Body」ですが、「spill=こぼれる」という言葉には、どのようにたどり着いたのでしょうか。
「きっかけのひとつは、大学院の指導教員だった伊藤亜紗先生が、『漏れる』という言葉を使って利他について考えていたことでした。伊藤先生のいう『漏れる利他』は、誰か特定の人のために何かを『してあげる』というよりも、自分の持っているものが外へと漏れ出し、それを誰かが拾って、自分なりの仕方で使っていくような関係です。『与える』という行為には、たとえ善意であっても、与える側が相手に何が必要かを決めたり、使い方を想定したりすることで、意図やコントロールが入り込むことがあります。それに対して『漏れる』というあり方では、誰に届くのか、どのように使われるのかがあらかじめ決められていない。漏れ出たもののその先が、受け取る側の創造性に委ねられている。その『漏れる』という言葉が、ずっと自分の中に残っていました。
私自身の生活では、もっと具体的で切実な意味での『漏れ』や『こぼれ』があります。高齢になった父や、介護が必要な祖母と暮らすなかで、排泄物や飲食物、匂い、剥がれ落ちた皮膚、反応に困るような言葉まで、日々いろいろなものが予定の外から現れてくる。
最初は、そういう現象を『leak=漏れる』という言葉で考えていました。leakには、雨漏りや光、音が漏れるように、境界が少しずつ曖昧になりながら、じわじわと染み出していくイメージがあります。でも、実際に私が暮らしのなかで経験していたことは、もう少し突然で強いものでした。何かがこぼれた瞬間に、それまでやっていたことをすべて中断して、掃除をしたり、対応したりしなくてはいけない。それによって、自分の予定や時間の流れそのものが一気につくり変えられてしまう。そう考えたときに、ゆっくり染み出す『leak』よりも、液体や粒が容器から突然あふれ出す『spill』のほうが、自分の経験に近いと感じたんです」

──「spill=こぼれる」という言葉を通すことで、身体そのものの見え方も変わっていったのでしょうか。
「そうですね。以前発表した《Walking With》という作品では、『重さ』によって体を感じ直すことがテーマになっていて、自分一人では背負い続けられないくらいの重さの衣服をつくり、背負うということを試みました。自分の重さを感じながら、もう一度身体と出会い直そうと思ったんです。でも、『spill=こぼれる』という言葉から身体を考えると、そもそも身体は一つの個体として閉じていられるものではないという方に関心が向きはじめました。
そして、自分の体にもずっと『こぼれる』という感覚があったことに気づきました。衣服や椅子の輪郭から肉がはみ出したり、子供の頃から腕や腰についている脂肪の粒が、体の外へぽろぽろとこぼれていくように感じることがありました。
私自身、これまで社会から求められる身体の形やあり方に、うまく収まりきれない感覚を作品にしてきて、社会の規範や期待をひとつの『容器』だと考えるなら、そこからはみ出してしまう身体もまた、『こぼれる身体』と捉えることができるのではないかと。『こぼれる』は、ずっと自分の身近に起きていたことだったんだと気づきました。
『こぼれ』は、自分の意志とは関係なく起こるし、ときには生活を大きく乱します。だから今回考えたかったのは、自分の思いどおりにはならないけれど、簡単には切り離すこともできないものとどう付き合っていけるのかということでした」
脂肪を「評価」から「物質」として見る
──新作《Spilling Time》では蜜蝋が使われています。身体から「こぼれる」ことを考えるなかで、なぜこの素材に行き着いたのでしょう。
「大学院で『ファットな身体』について研究していたことが大きいです。そのなかで影響を受けたのが、歴史学者クリストファー・E・フォースの研究でした。
太った身体については、身体の大きさやシルエットなど、『どう見えるか』という視覚的なイメージから語られることが多い。でもフォースは、脂肪そのものが持つ物質性に注目していました。
脂肪や油脂には、ベタベタしている、柔らかい、固体と液体の間を行き来する、といった曖昧さがある。そうした触覚的、生理的な感覚も、太った身体への嫌悪と結びついてきたのではないか、と」

──太っている/痩せている」「美しい/醜い」といった評価から離れ、脂肪そのものを見ると、身体との関係も変わりますか。
「変わりました。それまで私は、自分の体を、ずっと『見られる身体』として捉えていたんです。でも、『太っている』という意味から少し離れて、自分の体のなかにある脂肪という物質に目を向けると、全然違うものが見えてきた。
『この脂肪には脂肪なりの意志があるのかもしれない』『自分の体のなかで勝手に暮らしているのかもしれない』と考えると、自分そのものでも、単純に排除すべき異物でもないものとして捉えられるようになりました。そこから知人との会話をきっかけに蜜蝋に興味を持ちました。働き蜂は身体のなかで蝋をつくり、それを外へ分泌して、ほかの蜂とともに巣をつくります。
人間の場合、身体に蓄積した脂肪は、過剰とみなされれば『減らすべきもの』『取り除くべきもの』になる。一方で、蜂の体から外へ出た蝋は捨てられるのではなく、生活を支える住処へ変わっていく。そこにすごく創造的なものを感じたんです。
それは当事者研究や、私の服作りとも重なります。当事者研究では、付き合いづらい経験や困りごとをいったん言葉にして外へ出し、名前をつけたり、『これはいつ起きるのか』『何を求めているのか』と考えたりする。そうすることで、自分とその経験のあいだに新しい関係が生まれることがあります。
私の制作も、自分のなかにある扱いづらい感覚を一度外へ出し、服という形にして、もう一度身に纏うというプロセスです。排除するのではなく、別の形に変えて、もう一度関係を結び直す。その動きが、蜜蝋の生成過程と重なりました」
思いどおりにしない、という制作
──蜜蝋はかなりコントロールの難しい素材だったそうですね。
「そうなんです。紙に蜜蝋を塗って削り、インクを入れて熱を加える版画をつくったのですが、ものすごく時間をかけて描いたものが、きれいに消えてしまうことがある。『これだけ描いたのに全部なくなった……』という絶望感もありました(笑)。
3Dペンでドレスを制作していた頃は、むしろコントロールしづらい素材を、技術によって制御していく方向に向かっていました。頑張れば頑張るほど精巧になって、自分のイメージへ近づけられる。3Dペンは『思いどおりにしたい』という欲望を叶えてくれる素材でもあったんです。
でも今回は、それがことごとく破られた。残そうとしたものが消えて、消そうとしたものが残る。これまでなら『失敗』として見せなかったものも、その制御できなさごと作品として出してみようと思いました。
ドローイングでもあえて『見ること』を手放してみました。これまでは絵を描くとき、目で見て、自分のイメージに手を従わせて描いていましたが、一度目を閉じたり、手元を見ないようにしたりして、体の動きと紙とペンだけを頼りに描いてみたんです」
――視覚によるコントロールを手放すことで、何が見えてきましたか。
「当然、線はすごくずれる。でも不思議なことに、『描くぞ』と目で確認しながら描いた線よりも、半分眠りながらだったり、意識を飛ばして描いたりした線のほうが、自分にはしっくりくることがあったんです。
自分がコントロールして描いたというより、体が生んでくれた線という感じがした。それは自分にとって初めての体の現れ方でした。今回の制作では、『見ること』『見られること』を含めた、視覚をベースにした制御から少し離れてみることを試したんだと思います」

──介護や看護では、制御できないことを少しでも扱いやすくする必要があります。一方、今回の作品では「制御しきれないままにする」ことにも価値を見出しています。その両者は、津野さんのなかでどう共存しているのでしょう。
「当事者研究も、ある意味では制御できないものに名前をつけることで輪郭を与えて、付き合いやすくするための方法だと捉えています。
困りごとが続けば本人も周囲も大変だから、どうすれば扱えるようになるかを考える。それはとても切実で必要なことです。自分に主体感があって、『これは自分で扱える』と思えることは、安心にもつながります。
一方で、べてるの家などでいろいろな人と過ごすなかで、物事が思い通りに進まず、どうなるかわからないまま一緒に過ごす時間にも、大事なことがあるのではないかと思うようになりました。
もちろん、安全や生活のためにどうにかしたほうがいいことはある。でも、『どうにかする』ことだけを目指さずに、その時間を扱う方法もあるんじゃないかと思うんです。
今は医療や美容、さまざまな技術の発達によって、さまざまなものが制御可能になり、身体も『もっと変えられるもの』になっている。その確信はこれからますます強まっていくと思います。だからこそ、制御できないことが、すぐに悲しさや苛立ちに結びつく。その前提を少しでも崩すものをつくりたいと思っています」
「見られる身体」から「感じる身体」へ
──そうした考えに至るまでには、津野さん自身も長く身体をコントロールしようとしてきた経験があったのでしょうか。
「むしろ、もともとはものすごくコントロールしたかったんです。10代の頃から極端なダイエットを繰り返してきました。健康のためではなく、『来週楽しみな予定があるから、それまでに痩せたい』という感じで、短期間で体重を落とそうとする。その反動にもずっと苦しんできました。
20代前半には、白塗りをしたり、さらしを強く巻いたり、肉を隠すために布を貼ったりもしていました。『どう見られるか』をコントロールするために、自分の身体を力技で制御していたんですよね。
そうしているうちに、自分の身体が実際に何を感じているのかが、わからなくなっていきました。身体を労わるとか、ケアするという発想すら、自分にはほとんどなかったんです」
──その後、身体を「見る対象」ではなく、「感じるもの」として捉えるようになった転機は何だったのでしょう。
「大学院で身体について研究するなかで、身体には、外から見たり評価したりできる『客体としての身体』だけではなく、世界を経験する主体としての側面がある、という考え方に触れたことが大きかったです。
『客体としての身体』とは、鏡に映る姿や写真、自分が思い描いている身体像、体重のような数値など、外から観察できる身体のことで、ファッションで扱われてきたのも、圧倒的にこちらだと思います。
一方で、私たちの体は、ただ外から見られる『物』ではありません。話したり、見たり、歩いたり、何かを感じたりしながら、私たちはこの体で世界を経験し、世界に働きかけています。
私はそれまで、自分の体を『どう見えるか』という側からしか考えていなかったんですよね。でも、体は私が世界に触れ、経験するその場でもある。そう考えるようになってから、『この体はどう見えるか』だけではなく、『この体で何を感じ、世界をどう経験しているのか』に意識が向くようになりました。それによって、過去の経験の捉え方も、ファッションに対する考え方も変わっていきました」

──「見る身体」から「感じる身体」へ視点が移ると、衣服の意味も変わってきますか。
「私はすごく変わりました。服は、身体を細く見せたり、コンプレックスを隠したり、理想のシルエットへ近づけたりできるものです。でも同時に、ずっと身体に触れているものでもある。
布との摩擦や重さ、柔らかさ、窮屈さを通して、『ここに自分の体がある』と輪郭を感じさせてくれる。つまり衣服には、『見られる身体』をつくる側面と、『感じる身体』を支える側面の両方があるんです。
でもファッションでは、圧倒的に『どう見えるか』が語られてきた。活動初期に3Dペンでつくった《Out of Body, In Dress》は、硬いし、痛いし、着心地は最悪です(笑)。いま振り返ると、当時の自分にいかに『見られる身体』しかなかったかがよくわかる。

今は、服を着ることで自分の体と違う出会い方ができるものに興味があります。『どう見えるか』より、『着たらどんな感じがするんだろう』『体はどう動くんだろう』と思えるような服です。
11月からは、せんだいメディアテークで二藤建人さんとの二人展『ボディ、大丈夫です|Body, I’m Fine』が始まります。そこでは新しい映像作品にも取り組んでいて、蜜蝋がつくられていくプロセスから着想を得た服が登場する物語を制作しています。これまで自分自身や家族の経験をもとに作品をつくることが多かったのですが、今回はそこから少し離れて、初めてフィクションに挑戦します。自分でもどんな作品になっていくのか、楽しみにしています」
「美しくなりたい」は、誰の欲望なのか
──いまはSNSや美容医療を通じて、身体を絶えず評価し、変え続けることが容易になりました。「自分のために美しくなりたい」という欲望と、社会から求められる美しさは、どこまで切り分けられると思いますか。
「完全に切り分けるのは難しいと思います。ファットに関する研究を学んでいくと、私たちが『美しい』と感じるものは、歴史や文化、社会構造のなかでつくられてきたことがわかります。
たとえば、いま広く共有されている『細い身体が美しい』という価値観も、いつの時代や文化にも同じように存在していたわけではありません。とくに欧米では、身体の大きさに対する価値づけが、人種や階級、ジェンダーなどと結びつきながら変化してきた歴史があります。メディアや広告も、特定の身体を理想として繰り返し見せることで、そうした価値観に影響を与えてきました。
さらに今は、それが商業とも強く結びついている。新しいコンプレックスを生み出せば、それを解決するための商品や美容医療、薬を売ることができるから。SNSを開けば、そういう視覚情報に絶えず触れますよね。その社会のなかにいながら、『私は一切影響されません』と、自分の意思だけで切り離すのは難しいと思います。
ただ、私は整形したいとか、身体を変えたいという個人の願望そのものを否定したいわけではありません。特定の身体や容姿が『望ましいもの』とされる社会のなかで、そこから外れることで傷ついてきた人もいれば、さまざまな経験から、自分の身体に違和感や苦痛を抱えてきた人もいます。
だから、ただ『そのままでいい』『自分の身体を好きになればいい』と言うだけでは、その人が置かれている現実を見えなくしてしまうこともある。身体を変えることで苦痛が減り、生きやすくなるなら、それも大事な選択肢のひとつだと思います。
それに、こういうことを考えている私自身も、強いコンプレックスのある二の腕や顎の脂肪吸引について延々と調べてしまう夜もあります。頻度は減ってきましたが。私が怖いのは、その切実さに市場や社会の価値観が入り込んで、『ここも変えられる』『ここも直したほうがいい』と、変わりたいという欲望そのものが際限なく増幅されていくことです」
──だからこそ「Spilling Body」では、理想の身体像を新たに提示するのではなく、そもそも身体を見る視点そのものをずらそうとしているのでしょうか。
「そうだと思います。いまは服だけでなく、画像加工や整形、医療ダイエットも含めて、身体を客体化された『物』として捉え、変容可能なものとして扱う方向が強まっているように思います。
だから私は、どうにかそこから『降りる』ことのできる身体のあり方を用意しておきたい。『この身体を好きになりましょう』と言われても、好きになれないことだってあるし、思いどおりにならないこともあるから。
でも、『どう見えるか』とは違うところから体を捉えることはできる。消したり、元の形に戻したりするのではなく、一度外へ出して眺めたり、別の形に変えたりしながら、関係を結び直していくこともできる。そういう体のほうが、実はもっとヤバくて、面白いんじゃないかと思うんです」

津野青嵐 個展「Spilling Body」
会期/〜2026年9月13日(日)
会場/EUKARYOTE
住所/東京都渋谷区神宮前3-41-3
時間/12:00〜19:00
休廊日/月・火
入場/無料
https://eukaryote.jp/
Interview & Text: Mariko Uramoto Edit: Yukiko Shinto
