世界へ羽ばたく、YOONの新しいステージ
ブランド「AMBUSH®」のデザイナーとして、さらには「Dior Homme(ディオール オム)」のジュエリーデザイナーに抜擢され、飛躍的に活躍の幅を広げるYOONにロングインタビュー。 自分らしさを貫き、自身で築き上げてきたこれまでと彼女の素顔に迫る。(「ヌメロ・トウキョウ」2018年9月号掲載)
いま、ファッション業界で世界の注目を浴びる女性、YOON。2008年にパートナーでもあるVERBALと「AMBUSH®」をスタートして以来、デザイナーとしての活躍はめざましいものだ。自身のスタイルを貫き、道を切り開いてきたYOONはこれまでの道のりをどう考えているのか。2019年春夏メンズファッションウィーク中に、パリにてロングインタビューを敢行。彼女の生い立ちからブランド設立、そして、現在のファッション業界の“時代”の変遷について語ってもらった。
世界中を転々とした幼少期
「子どもの頃から女の子が好きな遊びがあまり好きではなくて、アウトドアが好きでした。男友達も多かったし、公園や外で遊ぶことがほとんどでしたね。父親がアーミー(陸軍) だったこともあり、世界中、さまざまな所に住みました。ハワイ、カリフォルニア、シアトル、韓国……その後、アメリカへ戻って高校を卒業し、ボストンの大学へ行きました。この経験が、自分のアイデンティティを確立したと感じています。アメリカの東と西、ハワイという独特な場所、アジアでの経験など、現地で暮らしている人たちとは違う視点で物事を見てきましたから」
世界各地で暮らしたからこそ、知見が広がり、彼女にしかない洞察力が培われてきたのだろう。その中でも特に影響を受けた場所が、シアトルと大学時代のボストンだという。
「シアトルにいた頃は、自分自身も若かったし、あらゆるカルチャーに影響を受けやすかった。ボストンは大学都市なので、世界中からたくさんの人が集まっていて、ボストン出身の人があまりいなかったんです。当時はNYから来た友達が多かったので、ヒップホップやNYのカルチャーに触れ、刺激を受けました」
勉強漬けだった学生時代
学生時代はどんなことに興味があったのか?
「実は、遊ぶ余裕がまったくありませんでした(笑)。韓国では現地の学校に通っていたので、韓国からアメリカへ戻ったとき、英語が話せませんでした。一言も話せないまま、高校に通っていたんです。それに、アメリカの大学へ通うことも考えていたので、もう必死で……他のことに集中する余裕がありませんでした。アメリカでは公立に通っていて、志望していたアートスクールに行くためにはポートフォリオも必要だったので、自分で頑張るしかなかったのです。大学では朝の6時から毎日、授業の前に絵の練習をしていました。奨学金をもらっていたから、とにかく単位を落とすこともできなかったので。バイトも2つ、掛け持ちしていましたよ! 毎日、勉強とバイト、夜に課題をこなして……そのルーティンでした。アートは時間がかかるものだし、どのくらいかかるかは見えないし、やるしかありませんでしたね」と、意外な学生時代を語る。
大学では、グラフィックデザインを勉強していた。プレゼンテーションの多いアメリカの授業の中で、科学の授業では自分で何かを作ることに楽しさを覚え、物づくりの仕事をしたいと考えるようになったという。
「もともとファッションは好きだし、雑誌も好き。雑誌のレイアウトを見るのが好きだったので、そういう仕事に最も近いグラフィックデザインを勉強することに決めました。ファッションは、どちらかというと服とコーディネートが好きでした」
そんな彼女が当時、女性として憧れていたのはローリン・ヒル、クロエ・セヴィニー、ウィノナ・ライダー、ケイト・モス。キャラクターが確立している女性が好きだったという。
「大学を卒業した後、そのままボストンで働いていたのですが、 NYへ行きたいと思っていました。その時にVERBALが日本に来たら? と声をかけてくれて、2002年に東京に来ることを決めました。日本語も話せないし、東京では何もまだできないけれど、とりあえず行ってみて何かできることが探せるかも、という感じでしたね」
東京で生活をし始めたYOONは、当時、音楽ユニットのm-floとして活動していたVERBALのスタイリングを手伝った。
「日本でヒップホップというと、“こうあるべき”みたいなステレオタイプが存在していて、ジャージのセットアップのようなスタイリングしかありませんでした。ヒップホップでもロックでも、アーティストが自分らしい服装をすることが大事だと思うのですが、当時の彼には、それを理解してくれるスタイリストがいなかったんです。自分たちがイケてると思ってるわけではないけれど、ラッパーだからこれ! というようなカテゴライズがちょっと嫌だった。だから、スタイリング未経験でしたが、私が手伝い、自分たちで好きにスタイリングしようと決めたのです」
これを機に、YOONはジュエリー作りもスタートしたと話す。
「当時、VERBALはTERIYAKI BOYZ®としても活動していて、彼がステージに立つと時に大きなチェーンのようなものが必要でした。それで、知り合いにファインジュエリーを作れる人がいたので、一緒にアイデアを出して作るようになりました。そのプロセスがすごく楽しかったんです。その時、非売品のPOW!®リングを作ったのですが、ネオン色のPOW!®チェーンを、VERBALと親交のあったカニエ・ウェストにもあげたんです。それを着用したカニエから周りの人に広まり、POW!®チェーンについての問い合わせがたくさん来ました。パリのセレクトショップ『colette』のサラも興味を持ってくれて……」
実は、このカニエこそ、YOONが「AMBUSH®」というブランドをスタートするきっかけになった人物。
「カニエはとても影響力がある人だったし、彼のおかげでPOW!®チェーンが広まったので、自分の中でもこれをブランドにすべきなのか、どうするのかという決断を迫られ、ブランドを立ち上げることにしました。それを決めたのが、2008年です」
手探りでブランドをスタート
ブランドをスタートするも、売ることも作ることも何も知らなかったという。「工場もマーケットも知らないし、シーズンごとに売らなければならないなんてシステムも知りませんでした。すべて自分でやらなければならなかったし、展示会のやり方も手探りで進めていきました。バイヤーやプレスに渡すルックブック制作など、とにかく全行程を自分でやっていき ました。2012年からは、コレクションを年2回発表することに決めて、本格的にブランドをスタート。ルックブック撮影の際、他のブランドの服を使うわけにもいかないなと思って、 服も作り始めました。最初はトップスを中心に作っていたのですが、2015年にはジュエリーに合うようなデニムコレクションを発表しました」
東京→パリが転機に
2015年、「AMBUSH®」は展示会の場所を東京からパリへ移す。そこには、YOONの強い思いがあった。「日本で展示会をやっていても、はっきりとしたフィードバックがもらえなくて、ストレスを感じることもありました。特にデータやバイヤーからの反応は大事にしたくて、それをもとに、ブランドを改善していきたいと思っていたので。このまま日本にいても次のステップに進めない、そう感じてパリに発表の場所を移しました」
ブランドを次のレベルに持っていくことを考えたら、絶対に必要だったという決断。この時、YOONの新しいチャレンジがまた始まった。パリに発表の場を移すと、環境はすぐ変化。各国のバイヤーが多く見に来てくれて、アイテムがマーケットにフィットするかどうか、すぐにフィードバックをもらえたと話す。
「例えば、“こんな重いジュエリー作って誰が着けるの?”とか、直球で話してくれる人もいた。日本だとこういう話ができなかったから、買う人の気持ちになることができなかったのです。とにかく、自分がいいと思うもの、ちょっとクレイジーだと思うものを作りたかったので。パリに来て、気づくこと、学ぶことがたくさんありました。特に、ジュエリーをデザインすることだけがデザイナーの役割ではないということ、デザインすることは、ブランドをどのように成長させ、ビジネスとしてどう成立させていくか、どのように顧客とコミュニケーションを取っていくかなど、すべてを網羅することだと理解しました。もし、パリに来ていなかったら、こんなことを感じることもなかったし、気づかなかったと思います。仕事量はかなり多いけれども、それは必然的なことだと考えています」
デザイナーとして心境の変化
展示会の場所をパリに移して以来、自分が何をすべきかとということがはっきりと分かるようになったという。
「私のゴールは、最高のジュエリーを作って日本に持って帰ることでした。それはデザインだけの話ではなくて、ビジネスの側面を含めた上でのクリエイションで、常に次の段階へのステップを踏んでいると感じています。今の段階では、まだブランドがどのくらい大きくなるは分かりませんが、着実に進歩していることは確かです」
プロセスに感情は必要としない
彼女は人生において“ルール”を設けないという。
「ルールを作らないのが逆にポリシーです。だって、作ってしまうと人生が楽しくなくなるじゃないですか(笑)。もちろん自分の中 でのルールはあります。でもそれが正しいか正しくないかは人によって違うものだし、フレキシブルに考えるようにしています。周りからアドバイスをもらうのは好きだけれど、最終的に決断するのは自分。人や状況、環境や立場によって意見が変わるじゃないですか? だからこそ、自分がしたいことは感情的にならず冷静に考えるようにしています。クリエイション面でもそうなのですが、基本的に物作りにおけるプロセスは冷静さが必要だと思います。チームワークだし、そこで感情的になっても何もいいものは生まれない。ただ、できあがるプロダクトはストーリー性のある感情的なものがいいと思っています」
ファッション業界の変革期を肌で感じる日々
今後、彼女はデザイナーとして、そして一人の女性として、人生に何を見据えるのか? 2019年春夏メンズファッションウィークを見ていると、黒人初のアーティスティック・ディレクターとして、ヴァージル・アブローがルイ・ヴィトンを手がけ、アジアの血を引くYOON自身もディオール オムに携わり、時代が大きく変わったと言っても過言ではないだろう。彼女自身もこのファッションウィーク期間中、考えることが多かったようだ。
「コレクション発表後にヴァージルの泣いている姿、そしてカニエとハグをする2人の姿を見て、とにかく感動してしまいました。こんなに感情的になるつもりはなかったのですが……。ヴァージルが成し遂げたことは、ファッション業界を大きく変えることだったと思います。キャリアとして、ファッションのバックグラウンドがない私たちは、デザイナーになることが難しいと思われていました。でも、違います。私たちはすでにこの舞台に立っているのです。それは、男だからとか女だからとかは関係なくて、アジア人だとかそういう人種も関係ありません。自分自身を信じて、努力して続けていくことが大事であって、それは私もやってきたことです。自分のアイデアを発信していくこと、“Be yourself,work hard”(自分らしくあれ、よく働け)、そうすることで、今があるのです。それはファッションだけの話ではなくて、別の業界でも同じこと。ヒップホップのラッパーだって以前は、アウトサイダーとして見下されていたのに、いまやポップスターとしてカルチャーを牽引している。時代は変わってきています。とにかく、自分を信じること。私は美しいものを作り、みんなに身に着けてほしいんです。ファッションは、特定の人に向けられるものではない。これまで以上に誰でも楽しめるものであってほしい。それが私のデザイナーとしてこれからやっていきたいことです」
ショー会場には、ランウェイピースをいち早く着用したセレブも来場。ベラ・ハディッドが手にした新作iPhoneケースは大ヒットの予感。Photo: aflo
キラキラとした表情でインタビューに答えたYOONは、今、とてもハッピーだと話す。
「ルイ・ヴィトンのショーもカラフルだったし、ディオール オムのショーも美しくカラフルだった。こんなに素晴らしいものはありません。“This is just a beginning”(ここからが本番)、これからもっとファッション業界は楽しくなっていくはずです」
Photos : Yuji Watanabe(Portrait)Interview & Text : Kurumi Fukutsu Edit : Yukino Takakura Location: Hôtel San Régis Special Thanks to Mariko Aoki