Culture / Post
古市憲寿×鈴木康広が読み解く「フォンダシオン ルイ・ヴィトン」アートの定義とは?
デザインには脚注を付ける文化がない?
F「ここで寝ているだけに見える人たちも、気づいたりしてるかもしれないですよね」
S「行動のきっかけにもなります。ある程度半ば強制的に機会を作ることで、寝転がるという選択肢が自分の中に芽生えるんですね。そういう気持ちを芽生えさせることもアートワークの役割かなって」
F「アートワークも建築も、人が行動するための背中を押すっていう意味で、近いですね」
S「古市さんの批判的なコメントもある意味、似ているなと思って見ていますよ。何かこう、既存するもののバランスを崩して考えさせるというか」
F「何かを“つつく”というのは意識はあります」
S「例えば測量士だったら、光をまず投げないと返ってこないとかありますよね。その投げる作業を巧妙にやることによって、何かを動かす。スケッチも同じ。インクを紙に当てた瞬間に返ってくるものある」
F「フランク・ゲーリーはスケッチを何枚も書くそうですね。それは一方的なものではなくて、もしかしたら自分に対してのフィードバックをまたインプットしてアウトプットするという、面倒臭い作業をしているのかもしれない」
S「スケッチをしないでじっと目を閉じて考えていても、多分だめなんですよね」
F「社会学もすごく近い。物理とかと違って、生きている人間が作っている社会だから、自分の発言がどうしても社会に影響を与えてしまうし、自分も影響を受けて、次の発言に繋がって行く。社会という観察対象を完全に外部からは見られない。自然科学とか天体は外側から見れても、社会科学の場合はそれができない」
S「自分もその一部ですからね。古市さんの著書『絶望の国の幸福な若者たち』の完全版が発売されましたね。2011年に出した本に、新たに書き足すということをされていて。僕はそういうことは、モノを書く人はやるべきだと思います。そういえば古市さんは、注釈を書くというジャンルを開拓した人だとも思っています」
F「そう、僕の本は本文の下に脚注があるんです」
S「あれがものすごく衝撃であり、共感する面もあり、フランク・ゲーリーにも通じるものがあるんじゃないかなと勝手に思っています。どんなに添削しても、常に何か言いたくなる。この時点ではこう書いたけど、今はこう考えているってすかさず思うし、言葉としてひとつ選んでも、そのまま受け取ってほしくない場合もある。それこそ『お前のこと好きだよ』って書いたとしても、でも嫌いって思っていたり。言葉っていうのがそもそも対義的な要素を含んでいるというか、好きの反対は嫌いとか設定されているから、好きの近くにも嫌いがある」