濱口竜介監督のヴェネチア国際映画祭受賞作。映画『悪は存在しない』 | Numero TOKYO
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濱口竜介監督のヴェネチア国際映画祭受賞作。映画『悪は存在しない』

濱口竜介監督の勢いが止まらない。『ハッピーアワー』(2015年)が第68回ロカルノ国際映画祭の最優秀女優賞(それまで演技未経験だった主演の4人全員が対象!)などを受賞した頃から世界的な注目が一気に高まり、『偶然と想像』(2021年)で第71回ベルリン国際映画祭の銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞。『ドライブ・マイ・カー』(2021年)では第74回カンヌ国際映画祭で脚本賞など計4冠に続き、第94回アカデミー賞国際長編映画賞を獲得。そして今回の最新作『悪は存在しない』では、2023年の第80回ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞した。

音楽×映像のセッションから生まれた、自然と人間の共生や原罪をめぐる寓話的傑作

オスカーと欧州の三大映画祭制覇という“グランドスラム”をわずか数年で達成し、目下、無双状態にあるようにも思える濱口監督。とはいえ、こういった賞レースの華やかな戦歴とは裏腹に、『悪は存在しない』は何の衒(てら)いも装飾もない、極めて簡素なインディペンデントスタイルで撮られた「小さな映画」だ。同時にシネマティックな愉楽と豊穣さに満ち、時代や世界、そこで生きる我々人間への問いを根源から突きつける、紛れもない現代映画の傑作である。

まず本作は企画の経緯が少々変わっている。最初は『ドライブ・マイ・カー』の音楽を務めたミュージシャンの石橋英子が、彼女自身のライヴパフォーマンス用の映像を濱口監督に依頼した。つまり「音楽×映像のセッション」というコンセプトが起点になったのだ。そこで濱口監督が行ったのは、まず物語のある脚本を書いて、いつもの映画と同じように作品を撮影すること。結果的にその映像素材からふたつのVer.が生まれることになる。ひとつは石橋の即興演奏用のサイレント映像作品『GIFT』。こちらは2023年のベルギーで行われたゲント映画祭で初めてパフォーマンスされた。そしてもうひとつが、音声つきの劇映画として仕上げた『悪は存在しない』だ。こちらでは石橋がサウンドトラックを務め、演奏にはジム・オルークらも参加している。

さて、では『悪は存在しない』はどういった物語が展開するのか。舞台は大自然に囲まれた長野県の水挽町(町の名前は架空のもの)。高原に位置するこの町には豊かな森ときれいな水があり、鹿などの狩猟も行われている。現在の住人は約6000人。土地の美しさに惹かれる形で、東京からの移住者も増加傾向にある。
主人公は地元の山男である巧(大美賀均)。娘の花(西川玲)とふたりで暮らす彼は、薪を割り、湧き水を汲み、自然と共生するスローライフと呼べるような慎ましい日々を送っている。

しかしそんな折、コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所がにわかのキャンプブームに便乗し、政府からの補助金狙いでグランピング場を建設する計画を水挽町に持ち込んできた。コンサルタントから指導を受け、東京から社員2名がやってきて説明会を開くが、森の環境や町の水源を汚しかねない強引かつずさんな開発計画に、地元住民たちは猛然と反発する……。


映画全編は実質的に計三幕、あるいは三楽章仕立てとでもいえる構成を取っている。最初のクライマックスになるのは、グランピング場建設計画側による公民館集会室での地元住民への説明会のシーンだ。ビジネスチャンスや地域活性化という美辞麗句を並べ立て、一方的に自社都合を押しつけようとする会社側に対し、住民側から怒号が飛ぶ。このパートではルーマニア映画の『ヨーロッパ新世紀』(2022年/監督:クリスティアン・ムンジウ)やスペイン・フランス映画『理想郷』(2022年/監督:ロドリゴ・ソロゴィエン)などにも通じる、共同体の内部と外部──「こことよそ」の衝突という主題が剥き出しになるのだ。また「水は低いところに流れる。上流でやったことが、下に流れるとものすごく大きなことになる」といった台詞にも示されるように、資本主義の利潤追求による外圧で、共同体の調和のサイクルを破壊することへの抵抗には、エコロジカルな問題意識も当然鋭利に装填されているだろう。
こうして場は紛糾に向かうが、そんな中、説明会に参加していた巧は丁寧な「対話」の必要性を提案する。彼はこう言うのだ。「俺は開拓三世。この土地の者は、ある意味みんなよそ者なんだ。問題はバランスだ」──。

ここから映画は柔らかに転調する。水挽町にとって「敵」だった会社の社員である高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)の主体に視座が切り換えされ、無口で武骨な巧との「対話」的なコミュニケーションが静かに紡がれていくのだ。特にいかにも会社人間として振る舞っていた高橋は、組織の者というペルソナを脱ぎ捨て、悩み多きひとりの個人として率直に自己開示を始める。そんなふたりと巧の交流の様子──対立を超えた融和への志向は、濱口監督がお気に入りの作品だとも公言しているエリック・ロメール監督の『木と市長と文化会館 または七つの偶然』(1992年)を彷彿させるだろう。『悪は存在しない』というタイトルもグッと説得力を帯びていくが、しかし本作はこの安全な領域ではまだまだ終わらない。

ホップ、ステップ、そしてジャンプで、この映画は安易な解釈を拒む世界へと大胆に飛躍する。強調されるのは山の深さだ。有機的でしかありえない自然の風景。マジックリアリズムの凄みすら湛えた土着と幻想。見据えるのは生態系の奥に潜む魔の闇か、決して解決することはない人間の原罪か──? ともあれこの圧巻の光景を目撃して、破格の余韻を感じてほしい。

主人公の巧を演じているのは、当初は本作にスタッフとして参加していた大美賀均。濱口監督はロケハン中に彼の顔や声の良さに気づき、主演をオファーしたらしい。自然の空間に絡まるサウンドスケープの繊細な雄大さも素晴らしい。濱口監督が作品の度に重ねていく表現の広がりには驚かされるばかりだ。

『悪は存在しない』

監督・脚本/濱口竜介
出演/大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、鳥井雄人
音楽/石橋英子
4月26日(金)より、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、K2ほか全国公開
https://aku.incline.life/

© 2023 NEOPA / Fictive

 

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Text:Naoto Mori Edit:Sayaka Ito

Profile

森 直人Naoto Mori 映画評論家、ライター。著書に『シネマ・ガレージ~廃墟のなかの子供たち~』(フィルムアート社)、編著に『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)ほか。『週刊文春』『朝日新聞』『TV Bros.』『シネマトゥデイ』などでも定期的に執筆中。 YouTube配信番組『活弁シネマ倶楽部』でMC担当中。

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