井浦新インタビュー「演じることは恥ずかしい。その感覚が人間でいられる証」
旬な俳優、女優、アーティストやクリエイターが登場し、「ONとOFF」をテーマに自身のクリエイションについて語る連載「Talks」。vol.62は俳優の井浦新にインタビュー。
幼い頃、突然姿を消した父親を、兄弟で探す旅を描いた映画『こはく』。井浦新は弟の亮太を、芸人としても活躍するアキラ100%が、本名の大橋彰名義で兄を熱演した。横尾初喜監督の半自伝的作品でもある今作は、監督の故郷である長崎と佐世保のオールロケで撮影。長崎の街から、井浦新は何を感じ取ったのか? 撮影中のONとOFFについても聞いた。
監督を追い込んで、聞き出して、人物を膨らませていく
──映画『こはく』は長崎と佐世保のオールロケでしたが、いかがでしたか?
「全篇、佐世保弁でしたし、スタッフや共演者とずっと一緒に過ごせる環境は、とてもありがたかったです。長崎の風土を肌で感じながら、役と自分自身を重ねて合わせて演じることができるわけですから。ロケ先では地元の方々がみなさん応援してくださって、多くの方の愛情に支えられている作品だと実感しました」
──芸人のアキラ100%さんと共演した感想は?
「現場では、アキラさんと作品について語り合って、兄弟の関係性を作っていきました。この作品は横尾初喜監督の経験を基にした作品であり、監督を投影した亮太の目線で綴られています。でも最初に台本を読んだとき、亮太の心の奥底にある感情が、僕には見えなかったんです。母親への愛情は伝わってきたけれど、兄や父に対して、もっといろんな感情があるはずだと感じて、監督を捕まえては追い込むように聞き出しました。監督も、僕と話すのが嫌だったときがあったかもしれません(笑)。話しているうちに、実はお兄さんに対してずっとコンプレックスがあり、監督自身、その感情に蓋をしていたことがわかりました」
──監督との対話を通して、亮太の感情を掘り下げ、役を深めていったと?
「この物語は、亮太が兄の章一と共に父を探す物語ですが、兄弟の関係が見えない限り、父親までたどり着けない気がして。この作品は、監督の半自伝的な物語なので、役を豊かなものにするには、監督自身を深く知ることが必要です。監督は穏やかで優しい人ですが、亮太がただのいい人になってしまっては、作品としての深みが出ない。まずは、監督から話をじっくり聞いて、監督に『このシーンを演じて僕はこう思いました。監督は実際にどうでしたか』と話し合って。そうやって、お兄さんへの思いをひとつずつ言葉にしていきました」
──まるでセッションのようですね。
「今回こうやって役を深められたのは、とても幸せでした。アキラさんに対しても『この物語は兄ちゃんの物語なんだから!』と、静かに圧をかけて(笑)。亮太は、いつまでもフラフラしている章一を認めていないんですが、その感情さえ自覚していない。それが正面から兄にぶつかり、自分の感情を自覚し、家族と向きあうとはどういうことなのかを理解していきます。家族を描くことは、温かくて優しい目線だけでは成立しません。台本に書いてあること以上、100点満点を越えないと、家族を描いたとことにはならないと思うんです。これは兄の物語でありながら、亮太の再生の物語であり、それが結果的に家族の物語になるはずだと考えました」
──物語の中盤に、章一と亮太が感情をぶつけ合うシーンがありました。
「父親を探す物語なので、父を見つけることがクライマックスでは予定調和のように思えて。中盤のシーンを全力で演じてみたいと監督に提案しました。亮太が兄に向きあって感情をぶつけることで、ラストに向けて一緒に歩むことができるんじゃないかと。撮影は、ライブ感を生かすために本番一発でした。役者側も本番ではどんな感情になるかわからないし、撮影班も動きの読めない役者をひたすら追いかけるしかない。シンプルな物語である分、登場人物の心の動きをしっかり届けることが重要なので、ここはアキラさんもかなり集中して、役と一体化していました。僕はどこか俯瞰して役と物語と現場をみていたので、アキラさんの姿が羨ましくもありました」
虚構の世界で「生きる」ために、「恥ずかしさ」を手放さない
──今作のように、監督と話し合いながら役作りをすることが多いのでしょうか。
「役者が全身でぶつかっていける存在は、監督だけなんです。監督の中には、向かってくる役者をいなす人も、はじき倒す人、いろんな方がいますが、役者が全身でぶつかることは、自分の全てを監督に捧げること。今回は特に横尾監督の自伝的な作品なので、僕は監督を逃さないつもりでしたし、監督は逃げられないと腹を括ったでしょうね。自伝的作品は、自分を全て掘り下げて恥ずかしいところまで全てさらけ出さないと。僕自身もどんなに恥ずかしいことでも演じきる覚悟でした」
──「恥ずかしい」と言う言葉が出ましたが、どんな時に恥ずかしさを感じますか。
「どんな役でも、演じることは恥ずかしいですよ。でも、その感覚があるから、役者が人間でいられると思うんです。普段、誰かと接する時、相手がたとえ肉親であっても、少なからず恥ずかしさを感じますよね。虚構の世界で、恥ずかしい気持ちを手放し、物語の世界に没入すると、自分は満足でも観ている側はキツいときもある。これは芝居論ではなく、僕はそういう作品が苦手というだけなんですが、怨霊役や死の間際などの極限状態は別にして、それ以外の役で恥ずかしさを手放すとナルシズムに陥ることもあります。恥ずかしさがあることで、虚構の世界でも“生きること”ができるんじゃないかと思うんです。と、こんなふうに説明していること自体、恥ずかしいんですが(笑)」
──演じる上でも、素の状態を大切にしているということでしょうか。
「理想は、芝居をしながら芝居をしない状態です。禅問答のようですが。デビュー当時は、ただそこに存在することは簡単なことでしたが、経験を積んだ今は、しっかり芝居をした上で芝居をしないことを目指したい。現場に入る前に、この役は普段どんな生活をしているのか、何段階も考えそれを踏まえて撮影に入ります」
──ということは、生活のすべてが、演技の糧になると。
「今回の作品では、横尾監督はハンバーグとスパゲティが好きだったので、僕もそれを食べていました。そういうことを積み重ねて、自分自身が『こはく』の住人になっていく。芝居は虚構の世界ですが、そういったことを何段階も踏まえることで、その世界で生きることができるんじゃないかと思っています」
撮影のご褒美は、「長崎チロリ」で一杯
──ところで、撮影の合間に、長崎観光はしましたか。
「遠出はしてないのですが、現場近くの路地をひとりで散歩しました。長崎には侘びたいい路地がたくさんあるんですよ。長崎に生まれた人は、なぜただの路地を喜んでいるかわからないでしょうけど、あの路地は長崎ならではです。長崎で生まれ育った亮太を生きるために、路地のある光景が当たり前のものにならなくてはと思い、路地を見つけては写真を撮ったり、迷路のような路地に入りこんで現場に戻れなくなったり」
──長崎というと坂の街でもありますよね。
「いい階段もたくさんあって、作品にも登場します。それから海と広い空。撮影監督の根岸さんが、海を母親に見立てていたので、海を感じるシーンも多かったんですね。今作は、撮影しながら長崎を味わうことができました」
──長崎の工芸やアートなどもご覧になりましたか?
「これも嬉しいことに、ロケ先が長崎びいどろの工房だったので、撮影の合間に、制作過程を見せてもらいました。織田信長にも献上したと言われる『長崎チロリ』という、瑠璃色の口の細い急須があるんです。歴史家と一緒に古文書から形を再現したものなんですが、とても興味深くてお話をじっくり伺うことができて。手仕事で大量生産ができず、5個作っても形よくできるのが3つというくらい難しいものなんです。最終的に、僕はそれを買ってしまっているんですが、『こはく』をやりきった自分へのご褒美として、これでワインを飲もうと思っています」
Photos:Ayako Masunaga Interview&Text:Miho Matsuda Edit:Masumi Sasaki