80〜90年代の原宿カルチャーを振り返る「スナックよね。」
ホスト米原康正が、ゲストを迎えて、原宿のストリートカルチャーをひも解くトークイベント「スナックよね。」に潜入。今回は、『CUTiE』創刊当時のカバーモデルを務め、現在は女優として活躍する渡辺真起子とともに、80~90年代を振り返った。
原宿のファッション・テクノロジー・ラボを拠点に「原宿にカルチャーを取り戻す」ために、定期開催している「スナックよね。」。今回のゲストは、女優の渡辺真起子。現在につながるストリートカルチャーを知るふたりの体験談を交えた、トークの一部をご紹介!
大人予備軍『JJ』 VS 大人になりたくない『CUTiE』
米原康正「まずは、80年代の渡辺真起子を取り巻く環境から。当時は、75年創刊の『JJ』や82年創刊の『CanCam』など、後に赤文字系と言われるような大人の女性になるための雑誌が中心だった。その中で89年に個性的な雑誌『CUTiE』が登場し、そのカバーガールを務めるわけだけど、そもそもモデルになったきっかけは?」
渡辺真起子「1986年、18歳でモデルを始めました。当時すでに女優になりたいという希望があったんだけど、どうすればいいのかわからなくて。服も音楽も好きな高校生でバイトもしたい。それならモデルはちょうどいいんじゃないかと考えて、意味もなく原宿をブラブラしました。そしたら、ラッキーな事に初日に『プチセブン』の読者モデルとして声をかけられて、その後、事務所が決まって本格的にモデルとしての活動を始めて」
米原「最初は、女優になりたかったんだ」
渡辺「そう。それでモデルを始めたんだけど、当時のモデルは今よりクラシックなスタイルだったから、和装も毛皮も着てランウェイで歩いて、雑誌もカタログからウェディング、モードなど、幅が広かったんですよ。デパートでファッションショーがあった時代ですからね。全般的になんでもやらなくちゃいけないから、事務所に言われてハイヒールと下着を3色揃えて、化粧品も一式買って、自分でメイクをすることもありました」
米原「ポージングはレッスンで習うの?」
渡辺「実践的なレッスンで、それは役に立ったよ。そこからオリジナルのポージングがあるとすれば、ファッションショーでコートを引きずって歩いたり、ランウェイを走ってみたりとか。私は桐島ローランドさんが同期ぐらいなんだけど、みんなそういうことで新しさやオリジナリティーを出そうとしてたと思う」
米原「87年に『CUTiE』は『宝島』の別冊として登場するんだけど、その存在は、すでに知ってた?」
渡辺「もちろん。宝島っ子だったから」
米原「89年に『CUTiE』が月刊化するけれど、表紙モデルに決まった経緯は?」
渡辺「編集、スタイリスト、ヘアメイクの人が集まった会議で、私の名前が出たらしい。その時、私の仕事も勢いがあって、CMにも出演してたし『ELLE JAPON』にもモデルとして出たの。その当時、モード誌は海外モデルが当たり前だったんだけれど、東洋人モデルを使うという連載企画の2回目に選ばれて。それは、私のキャリアにとっては世界が変わるくらい、センセーショナルなことだった。色々な魅力のあり方を業界も探していたんだと思う。経済誌では、〈今はブス顔が流行り〉と記事にされたくらい(笑)」
Text:Miho Matsuda
Edit:Masumi Sasaki