80〜90年代の原宿カルチャーを振り返る「スナックよね。」 | Numero TOKYO - Part 2
Culture / Yonethropology

80〜90年代の原宿カルチャーを振り返る「スナックよね。」

ホスト米原康正が、ゲストを迎えて、原宿のストリートカルチャーをひも解くトークイベント「スナックよね。」に潜入。今回は、『CUTiE』創刊当時のカバーモデルを務め、現在は女優として活躍する渡辺真起子とともに、80~90年代を振り返った。

『CUTiE』のクラブスナップはストスナの元祖 米原「普段はどんなファッションだった?」 渡辺「オリーブ少女。パンクの影響もあって、ヘアスタイルは刈り上げ。高校生だから彼氏よりもファッションが重要」 米原「赤文字系の『JJ』はスムーズに大人の社会に移行できるファッションだったけれど、『Olive』『CUTiE』はそのまま大人になっちゃマズいファッションだったよね」 渡辺「大人になりたくない大人たちが作ったから、そこには青春しか詰まってないってことかな」 米原「『CUTiE』はスタイリストが提案するスタイルと一緒に、街のカッコいい人を取り上げていた。『JJ』もスナップはあったけど〈お母さんから譲り受けたシャネルの時計を大事にしています〉とか、ストリートではなかった。『CUTiE』は創刊当初からクラブでのスナップがあって、今のストリートスナップにつながっていく。そこに登場する普通の子が、作り手側に回る雰囲気もあった」 渡辺「私が表紙に選ばれた理由も、いわゆるモデルらしくないのが良かったみたい。私は街にいる子たちの代表だった。ちょうど、クラブカルチャーが定着した時代でしたね」 米原「代々木に〈代々木チョコレートシティ〉というライブハウスがあってそこでよくイベントやってた。その後にテレ朝通りに〈アナザーワールド〉、西麻布に〈トゥールズ〉ができた。アシッドハウスが流行り始めた頃」 渡辺「ハイブランドの勢いが落ち着いて、ナイキやアディダスなどのスポーツブランとハイファッションがミックスし始めてたしね」 米原「ブランドを着ていることがコンサバティブだった時代に、佐藤チカちゃんが〈プラスチックス〉でまったく違う解釈でシャネルを着た。それで、シャネルってカッコいいんだと再認識したり。『CUTiE』では(藤原)ヒロシ君が連載したり、(高木)完ちゃんや野沢直子とか友達がたくさん載ってたな」 渡辺「サブカルは少し狭い世界だったから。ヒロシ君や完ちゃんはすでに原宿にいてすぐに知り合えたりして。ノブさんなんかは、20代で『ヒステリックグラマー』を立ち上げてた。『MILK』の大川ひとみさんに声をかけてもらって、ムラジュン(村上淳)や鈴木一真と『装苑』のひとみさんの特集?に出たこともあった」

80年代後半は、ファッションと音楽が密接だった

Text:Miho Matsuda

Edit:Masumi Sasaki

Profile

米原康正(Yasumasa Yonehara) 編集者、クリエイティブディレクター、フォトグラファー、DJ。世界で唯一チェキをメイン機材とするアーティストとして、幅広く活躍。中華圏での人気が高く、中国版 Twitter である「新浪微博(weibo)」でも235万人のフォロワーを有し、シューティングと DJ をセットにしたイベントでアジアを賑わせている。世界のストリート・シーンで注目される、ジャパニーズ・カルチャーを作品だけでなく自身の言葉で語れる日本人アーティストの一人。
渡辺真起子(Makiko Watanabe) 女優。1986年よりモデルとして活動を始め、広告、ファッション誌、コレクションなどに出演。CM「とらばーゆ」(リクルート)が話題になる。1988年映画『バカヤロー! 私、怒ってます』で女優デビュー。1989年『CUTiE』創刊号の表紙を飾る。主な出演映画に、『M/OTHER』『殯の森』『愛のむきだし』など。カンヌ国際映画祭をはじめ多くの国際映画祭に参加し、様々な賞を受賞している。『チチを撮りに』(13年 中野量太監督)では、アジアのアカデミー賞といわれる、アジアン・フィルム・アワードにて最優秀助演女優賞を受賞するなど国際的な評価も高い。最新作『AMY SAID』が9/30(土)にテアトル新宿ほか全国順次公開。

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