第35回「高松宮殿下記念世界文化賞」坂茂ら5名が受賞
【絵画部門】ソフィ・カル
他者の声や姿を探究し、人生や日常をアートに昇華する
フランスを代表するコンセプチュアル・アーティストの一人。他者へのインタビューを通して詩的な要素を含む話を探求し、写真と文字を組み合わせた作品を発表する。人生や日常の空間をアートに昇華させる斬新な作風が世界中で注目され、2012年にはフランス芸術文化勲章コマンドールを受賞した。
代表作の一つであり、アーティストとしての原点が伺える初期作『ヴェネツィア組曲』(1980)は、パリの街中で出会った人をヴェネツィアまで尾行し、その行動を撮影したもの。20代の頃、海外での長旅を終え、戻ってきたパリで何をすればいいかわからず、日々に方向性を持たせるために始めた「尾行」という行為が芸術につながったという。その後手法は変わるが、他者の人生を追い、耳を傾ける作風は変わることがない。
日本滞在中の経験をもとに、失恋による痛みを写真や言葉で表現した『限局性激痛』(1999〜2000)は、初公開から20年後に再展示されるなど、日本で特に人気ある作品だ。「皆が同じような経験をし、同じ痛みを持っている」ことが共感を呼び、癒しになったと語る。「自らの芸術を描写するのは鑑賞者の仕事」だと、一貫して作品の評価は鑑賞者に委ねる姿勢もカルらしさと言えるだろう。
【彫刻部門】ドリス・サルセド
“暴力”の証人となり、苦しみに寄り添い、批判的なまなざしを向ける
南コロンビア・ボゴタを拠点に活動する彫刻家、インスタレーション・アーティスト。暴力、喪失、記憶、痛みをテーマに、そのメタファー(隠喩)として椅子など木製家具や衣類、花びらといった身近な素材を再利用、再構築しながら表現する。
コロンビア革命軍(FARC)などの左翼ゲリラと政府軍、右翼民兵組織との間で半世紀以上続いた内戦が、サルセドの創作活動の原点だ。「コロンビアで育ったことで、私は世界を見る視点を得た。それが私の作品全体を決定づけた」
全ての作品において、暴力の被害者がモチーフとなる。「犯罪と政治的暴力が被害者に与える壊滅的な影響を本当に理解するには何年もかかる」と言い、リサーチ、インタビューなど徹底的なリサーチの上で制作は進む。
作品に、植民地から連れてこられた奴隷や人種差別といった問題を表現したインスタレーション『シボレス』(2007)、FARCの戦闘員が自主的に差し出した37トンの武器を溶かして造られた1,296枚のタイルに、内戦中に性的暴力を受けた20人の女性が金属を打ち込み「芸術と記憶のための空間」の床としてつくった『フラグメントス(断片)』(2018)などがある。現在は、ウクライナ、ガザ、シリアなどを示唆する作品を制作中だ。
こうしたテーマに向き合う理由を、サルセドはこう語る。「第一に、暴力が簡単に忘れ去られないように暴力の証人となること。第二に、作品を通して被害者の苦しみへの共感を示すこと。第三に、世界で起きていることを批判的に分析・思考する言葉でありたい」
【建築部門】坂茂
平時と非常時、両方で使命を果たす「行動する建築家」
独創的な素材、紙管の選択と革新的デザインで建築に新たな地平を切り拓いた、日本を代表する建築家の坂茂。2014年、プリツカー賞を受賞。
ロールのファックス紙の芯や、事務所にあったトレーシングペーパーの芯に使われていた再生紙でできた紙管は、坂の代名詞とも言える。紙管建築は1995年のルワンダの難民シェルターや阪神・淡路大震災の仮設住宅建設などで使用。トルコ北西部地震(1999)やインド西部地震(2001)など国際的な広がりをみせ、国内でも東日本大震災や今年の能登半島地震などで高く評価されている。プライバシーを守るための紙管の間仕切りを作り、ロシアのウクライナ侵攻による避難民を受け入れる施設の改善にも貢献している。阪神・淡路大震災を機に立ち上げた「ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク(VAN)」は国内外で被災地支援活動を行っている。
また『ポンピドー・センター メス』(2010)や『ラ・セーヌ・ミュジカル』(2017)など、特徴的な美術館や劇場も手がけており、建築家としての役割は一方にとどまらない。「住宅や公共建築なども設計しますが、災害支援も自分のライフワーク。賞はその両立に対して頂いたのだと思うと責任を感じます」と語る。
【音楽部門】マリア・ジョアン・ピレシュ
音楽を介し、異なる互いを尊重し合うための取り組みを
現代を代表するピアニストの一人。新日家としても知られ、今回の受賞に際し「日本は私に、物事の本質とは何かを教えてくれる国。世界文化賞の受賞以上の名誉はありません」とコメントする。
1970年、ベートーヴェン生誕200周年記念コンクールで優勝。1986年にロンドンのクイーン・エリザベス・ホール、1989年にニューヨークのカーネギー・ホールでリサイタル・デビューを果たし、国際的なキャリアをスタートさせる。フランスの人気レーベル、エラートで15年間、ドイツ・グラモフォンで25年間、レコーディングを行う。
ピアニストとしてのキャリアを積む一方で、1970年代以来、生活、コミュニティ、教育における芸術の影響を考察し、その考え方を社会に定着させる方法を見出そうとしてきた。1999年、ポルトガル東部にベルガイシュ芸術センターを設立し、農村出身の子どもたちのための合唱団、実験的なコンサート、プロ・アマを問わないアーティストのためのワークショップを展開。互いを尊重し、あらゆる文化、環境、自然、生命を尊重することで、地球を取り巻くすべてのものを包み込むことが目的だ。「想像力を使って、今より少しは良い世界を作るための場所」と、ピレシュは語る。
2012年には、ベルギーで恵まれない環境にある子どもたちのための合唱団を結成。異なる世代がステージを共有することで、競争するのではなく、参加者相互に利他的なダイナミズムを生み出すことに取り組んだ。現在も演奏活動の合間に、世界各地で若手ピアニストを指導している。
【演劇・映像部門】アン・リー
多彩なジャンルを手がける国際的な映画監督
米国を中心に活動する台湾生まれの映画監督。洋の東西を問わず、時代の奔流と向き合う人間を描く芸術性と、多くの観客を引きつける娯楽性を両立させた作品を生み出し、世界的な名声を得ている。
高校在学中に映画に夢中になり、大学受験に失敗。国立台湾芸術学校(現・国立台湾芸術大学)で「演劇こそ私の居場所」と確信し、卒業後に兵役を経て渡米。イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で演劇を、ニューヨーク大学大学院ティッシュ・スクール・オブ・ジ・アーツ(TISCH)で映画製作をそれぞれ学んだ。
ニューヨーク在住のまま、台湾・米国合作映画『推手』(1991)で長編映画デビュー。『いつか晴れた日に』(1995)は、ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞したほか、米アカデミー賞でも7部門にノミネートされ、ハリウッドで脚光を浴びるきっかけとなった。本作についてリーは「私をプロの監督にしてくれた」と回想する。
男性同士の「愛」を描いた『ブロークバック・マウンテン』(2005)でアカデミー賞監督賞を初受賞。この作品と、日本軍占領下の上海を舞台にしたスパイ映画『ラスト、コーション』(2007)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を2度にわたり受賞した。台湾出身の父と米国で暮らす子の葛藤を描いた初期作品から、南北戦争、ウォーターゲート事件、コミックのスーパーヒーロー、イラク戦争、SFアクションに至るまで多彩なジャンルの作品を手掛けている。
台湾出身者から初めての世界文化賞受賞となった。「台湾がこのように認められることをとても誇りに思います」とコメントしている。
【第27回 若手芸術家奨励制度】
コムニタス・サリハラ芸術センター
分野や垣根を超えたプログラムで、表現の自由を育む
音楽、ダンス、演劇、文学、映画や美術などの多様なジャンルで表現活動を推進する、インドネシア初の民間複合文化施設だ。軍事政権下で芸術活動の自由を求めて1995年に誕生した組織のコムニタス・ウタン・カユ(KUK)が母体で、2008年にアーティスト、ライター、ジャーナリストらの支援で首都ジャカルタに設立された。
思想と表現の自由を守る芸術活動を推進し、多様性を尊重して、芸術的資源、知的資源を育成することを目的とし、長期的な視野で実験的なプログラムを支援し、観客が批判的な目を養うことにも取り組んでいる。
センターでは、3,800平方メートルの敷地に、ブラックボックス型の室内劇場、ダンスと音楽のスタジオ、アートギャラリー、ショップ、カフェなどがあり、演劇やダンスの公演、音楽コンサート、展覧会、読書会、討論会、ワークショップなど、年間100件以上のプログラムを実施。他の民間組織と連携した、ダンスや音楽など独自のフェスティバルも行われている。
さまざまなプロジェクトで若い人材を公募し、分野を超えて芸術を学際的にまとめるところがサリハラ芸術センターの大きな特徴だ。ニルワン・デワント理事(統括キュレーター兼プログラム・ディレクター/詩人)は「プログラムに重点を置き、アートと批判的に関わりながら、地域とコミュニケーションをとる方法を考える必要がある。緊密に協力することで、表現の自由をより育み、新しい才能を紹介することができる」と語る。
高松宮殿下記念世界文化賞
URL/www.praemiumimperiale.org/ja
Text:Akane Naniwa