戦前と戦後でエンターテインメントはこんなに違う[前編]/菊地成孔×伊藤俊治 対談連載 vol.11
I「日本でも風営法が施行されたりと完全に変わった時ですよね。84年から85年って、ある種の分水嶺(ぶんすいれい)のような気がする。バブルの予兆の泡が立ち上っていたし」
K「85年にプラザ合意があって、これがバブル経済のきっかけだといわれるんだけど、それ以前からすでに雰囲気はバブルなんですね。女性がお立ち台に上がってその周りを札束が飛び散るような、目に見えるバブルではなくて、丁寧に言うと「旧来的な価値なら何でもいい、一生平和だし怖いのはエイズだけ」っていう気分はすでに始まっていたんです。アカデミズムまで軽くなってて、ニューアカとかいわれ始めてましたから。心の準備ができているところにプラザ合意がきて、具体的な要素としてバブル経済になりました。だから、84年はその前夜ですね。この年に、際どい時代を反映した映画が何本もあるわけですよ。67年の作品とは打って変わって、戦争もない不思議な夢の国の中で、変なことが起こっているっていう感じ」
I「『ときめきに死す』はまさにそうかも。森田芳光の作品ですよね。この頃って、日活とか東映とかっていう映画会社が力を失いかけていたから、インディペンデントで監督になっていく人が増えていました。昔は必ず助監督をやって経験を積んでからやっと映画を撮らせてもらえるんだけど、その体制が崩れて、8ミリフィルム映画祭でグランプリ取った若い人がそのまま監督になるという図式に変わってきて。森田さんもそのひとりですよね。実は、ぴあ出身」
K「この間、岩井俊二監督とバート・バカラックを見にいったんですけど、そのときもこの話で盛り上がりました。僕が、森田芳光作品だったら『ときめきに死す』か、とんねるずの『そろばんずく』がいいっていったら、岩井監督が『ときめきに死す』が好きだと言っていて。あの乖離(かいり)した感じに惹かれると言ってましたね」
I「原作は小説ですよね?」
K「はい。丸山健二っていうハードコアな人の作品で、映画の脚本では、アルベール・カミュっぽく書き直されています。ある街に巨大宗教団体の教祖が来るんですけど、それを暗殺するために1カ月前から前入りしている3人組がいるんです。それが、樋口可南子さん、沢田研二さん、杉浦直樹さん。3人はここが初対面になるんですが、ひとつのペンションでずっと暗殺の練習をします。ただしそれが、遊んでるようにしか見えない。で、いざ当日が来ました、失敗しました、沢田研二は捕まって、連行された車の中で自殺する。で、終わり。映画の大半は3人が遊んでるんです。ふぁーっと霧がかかったみたいな雰囲気が漂っている映画。暴力の描かれ方ですかね。今のように隙あらば言葉で傷つけ、体でも傷つけるというようなことは全くないから、84年は日本が最も暴力から遠かった時代なんだなと、あらためて思わされる。園子温監督の映画とかと見比べたら面白いかもしれない」
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