J「NYで歌わせて頂く機会もあったのですが、だんだん現実を見るというか。例えばファッションって、その国出身のデザイナーじゃなくても、認められるチャンスってたくさんあると思うんです。でも、音楽の世界って国民的な絶対数がないと成り立たない。日本人が歌を届けるには、日本人の人口がその国である程度のパーセンテージでないと成功が難しいんです。ブラックミュージックが流行るのはブラックピープルがいる土地。スパニッシュが流行るのもスパニッシュがいるから。それを考えると、アメリカで歌手をやるのは相当難しい。現実を見ちゃったんですよね。ライブハウスで歌ったり、ジャズクラブで歌っていくという意味では、やっていけると思いましたが、もっと大きなステージを夢を見るとすると、それはアメリカではない。アメリカのレーベルからもレコードを出したりしていた時期もあって、ずっと葛藤はしていたんですが、私は日本人。だから、日本でのデビューというお話を頂いた時に決めたんです。私は日本人だし、アメリカ人じゃない魅力で日本の歌を歌える。日本語の歌は、誰よりもうまく歌おうって。でも、怖かったですよ。私、歌うのは好きだけど人に注目されるのは苦手だから」
H「あんなに、何万人も動員して歌っているのに!?」
J「ようやく慣れてきましたが、昔はライブでお客さんは完全に敵だと思っていました(笑)。 できることなら後ろで歌いたいってほど。ガラスのハートなので、自分の名前でデビューすると色んなことを言われるし、その度に薄いハートがくしゃくしゃになるんです。批判されるのも誉められるのも自分っていうのに、耐えられるのかむちゃくちゃ怖かったです。例えば、50人好きな人がいてくれたら、その倍嫌いな人がいないと成り立たないっていうのがだんだん分かって来たから、もう腹はくくれた気がします。悪口言われてなんぼ。無視されるのが一番よくないっていうのを昔マドンナが言っていたのが、今になって分かって来ましたね」
──JUJUさんの帰国は、デビューがきっかけだったんですね。
J「そうですね。でも実は、2003年に契約して2004年にデビューしたんだけど、契約してからの6年間東京ではホテル住まいでした。厳密に言うと、ちゃんと帰国していない(笑)。 2週間おきにNYと東京を行ったり来たり。でも、なんだろう…それをやっているうちって自分の中で逃げがあって。JUJUとして、歌手として東京で売れなかったら、NYでまた洋服屋に戻ればいいって甘えがあったんですね。でも歌手になりたい気持ちは常にあったから、これはどうにかしないといけない。いろんなせめぎ合いしているうちに、事務所から契約を切られそうになったりとか、自分が疲れちゃった時期もありました。そんなこんなで“じゃあこれを最後のシングルにしましょう”って決めて出したのが「奇跡を望むなら…」。その時からだんだん自分が変わっていったんです。最後のシングルになるんだったら、後から後悔したくない。あの時ちゃんとやっておけばよかったなって思いたくない! 150%の力で歌おうと思って歌ったら、そこから徐々に聞いてくれる人が増えて行ったんです。全身全霊ささげないと、やっぱり伝わらないんだなって知りました。それで、東京に家を借りたのが、NYとの最初の別れです。東京でちゃんと家を借りてからもNYには荷物が残っていたりしたんですが、去年の春にようやく決別できました。今はもう、完全に引き払っています。けじめって大事ですね。お二人は?」