曽我貴彦インタビュー「日本は世界的にみてもどこにもない味わいのワインができる」
ここ数年、人気が高い日本のワイン。若手の醸造家が国内のあちこちで新しいワイナリーを立ち上げ、個性的なワイン造りが行われている。現在の国内ワインシーンを牽引するのが曽我貴彦。2020年には、デンマーク・コペンハーゲンの世界屈指のレストラン「noma」のワインリストに日本で初めてオン。世界的な評価を決定的なものにした。日本を代表する長野の小布施ワイナリーの次男として生まれながらも、自身のワイン造りの地を北海道余市町に定め、2010年にワイナリー「ドメーヌ・タカヒコ」をオープン。独立から10年という区切りの今、曽我貴彦に聞いた余市でワインを造るということ、日本のワインのこれからのこと。
──「ドメーヌ・タカヒコ」がスタートして10年。ここまでの歩みを曽我さん自身はどうお考えですか?
「僕自身、悪くない10年だったと思っています。ただ、ものすごく良かったかというと、そうでもないかな。かと言って、全然ダメというわけでもなかった。まだまだ、もっともっとという気持ちが強いですね」
──ワイン造りに関して、まだ十分な手応えを感じていないということですか?
「いや、手応えはずっとあるんです。余市でワインを造ろうと思った瞬間から手応え十分でしたからね、僕は(笑)。余市のぶどうを使ってワインを造るのであれば、うまくいかないわけがない。自信過剰と言われるほどに、そう思っていました。余市のぶどうのポテンシャルは相当ですから。気がかりだったことは、ひとつ。自分の畑で、自分の手で、この素晴らしいぶどうをつくることができるのかどうか。その点に多少の不安を持ってのスタートだったことは確かです。それでも自信の方が大きかったかな。自分がやることで、余市のぶどうにはもっと伸び代があると思っていましたからね。いやぁ、生意気盛りでした(笑)」
──(笑)。ぶどうづくりの不安が現実になったと?
「当たり前のことですが、ワインはぶどうで出来ています。いいぶどうが出来なければ、いいワインも出来ない。ぶどうづくりに関して言うと、この10年間、僕はずっとトライアル&エラーの繰り返しです。ひとつは、有機栽培。余市ではまだ誰も取り組んでいなかった有機栽培にトライをして、灰色かび病(植物が灰色のかびに覆われる病害)にやられてしまったんですね。有機栽培をやる以上、ある程度は想定していました。でも、その凄まじさといったら、僕の想像をはるかに超えるものでしたね」
──それはいつのことですか?
「ここをスタートしてすぐのことです。2012年は半分のぶどうを捨てることになって、2013年はほぼすべてのぶどうが灰色かび病に感染しました。スタート当初は、基本的に余市の農家さんからぶどうを買ってワインを造っていたんです。だからぶどうの半分が使い物にならなくてもなんとか凌ぐことが出来た。2013年、僕は買いぶどうの数をぐっと減らしました。自分の畑のぶどうが育ってきたので、出来る限り自分のぶどうでワインを造ろうと考えたわけです。そもそも余市にやって来た最大の目的は、自分でぶどうを育てて、そのぶどうでワインを造るということですからね。その結果が全滅です……。同情した農家さんが、このぶどうでワインを造ったらどうかと分けてくれたりしてね、ありがたかったです」
──どうやって立て直したわけですか?
「ヨーロッパには、灰色カビ病(貴腐)から素晴らしいワインを造る造り手もいるので、灰色かび病のぶどうを捨てないでワインを造ってみたんです。大きなターニングポイントでしたね。周りは捨てろ捨てろと言うわけです。使い物にならないぶどうですから、当然ですよね。早採りして、スパークリングワインを造った方がいいとも言われました。アルコール度数が低いスパークリングワインなら、なんとかなるかもしれないと。少しは生活の足しにはなるから大至急やった方がいいと。でも、僕は早採りをしなかった」
──なぜですか?
「僕がこの場所で造りたかったのは赤ワインなんです。追い詰められたからといって、その思いを曲げたくなかった。意地を張っていたのか、調子こいてたのか、わからないですけどね(笑)。とにかく赤ワインへと続いていく道を曲げたくなかったんです。そうは言っても手をこまねいて見ていたわけじゃない。ヒントをくれたのが『10Rワイナリー』のブルース(・ガットラヴ)と、『農楽蔵』の(佐々木)賢くん。僕と同じように志を持って北海道でワインを造っている二人です。偶然にも同じアドバイスをもらいました。ブルースは言ったんです。アルザスのワインバーで一緒にブラン・ド・ノワール(黒ぶどうで造るスパークリングワイン)を飲んだことを憶えているかと。あのとき君は美味しいと言ってたじゃないか。赤ワインにこだわるならブラン・ド・ノワールをやってみたらどうなんだと。記憶を呼び起こしながら、あぁ、そう言えばと思いましたよね。賢くんからはアルザスで働いていた経験を教えてもらいました。アルザスでは灰色かび病にやられるとブラン・ド・ノワールを造ったりするんですよと。ここでも、ブラン・ド・ノワールの名前が登場するのかと。なるほど、ブラン・ド・ノワールであれば赤ワインの分脈であるし、やってみるかと」
──ブラン・ド・ノワールを造った経験はあったわけですか?
「いや、まったく(笑)。まずは賢くんに相談しました。アルザスではバケツをふたつ持って、貴腐になったものと助かったものを分けて採るというので、その通りにやってみようと。でも、病気だらけのぶどう畑に収穫のボランティアのみなさんに来てもらうのはいかがなものかという思いがありましたよね。こんなに腐ったぶどうでワインを造るの? なんて思われたくないなという葛藤もありました。とは言え、やると決めたわけですから、結局、お願いするんですけどね」
──みなさんの反応はいかがでしたか?
「きちんと説明をしたこともあって、その辺は杞憂に終わりましたね。ただ、僕自身が手探りな状態でしたから、別の意味で不安だったかもしれないです。腐ったぶどうは、常識的にはその日のうちに潰すんですけど、そんなことをやってたら収穫が進まない。だったら、タンクの中にすべてぶち込めと。結局、赤ワインと同じやり方でやるしかないと。みなさん、そっちの方が驚きだったんじゃないかな」
──ある意味、オリジナルの造り方になったわけですね?
「そうなんです。結論から言えば、想像以上に美味しいワインが出来てしまった。しまった、というところがミソですよね。病気になったぶどうはすぐに亜硫酸を入れるのがこれまた常識ですけど、それすらもしなかった。いま思うと、めちゃくちゃですよ。心のどこかに、このぶどうは捨ててもいいやっていう思いがあったんでしょうね。いざ出来上がってみると、甘口になるはずの貴腐が、辛口に仕上がって、やったぁとなるわけです。甘い香りで飲み口はドライ。非常に特徴的なワインが完成したことで、僕の心のケアにもなりました。余市の10年を振り返ると、2013年は大きな意味を持った年です。もしここで失敗していたら有機栽培をあきらめていた可能性もありますからね。なんとか乗り切ったことで、このまま有機栽培を続けても、最悪、ブラン・ド・ノワール100%で生きていけるなという、まぁ逃げではあるんですけど、僕の中で余裕が生まれたという意味ではターニングポイントでしたね」
──2014年からは順調にぶどうが育ったわけですか?
「まさか(笑)。1年1年が闘いです。ただ、苦い経験を踏まえて、どうすれば灰色かび病にやられないかという検証は出来るようになっていきました。病気の原因が花カスにあることは承知しているわけです。理論上は開花し終わった段階で、すべての花カスを払っていけばなんとかなる。ただ、僕の畑はぶどうの列が200列あって、どう頑張っても一人一日一列が限界。現実的じゃない。そんなとき、ブロワーを使って風で花カスを飛ばすといいですよと聞いたので試してみたら、2014年は全滅を逃れたんですよね。そこからは試行錯誤です。手持ちのブロワーから背負式のものを導入したり、時期や回数、方法など改良に改良を重ねて、灰かびと戦ってきました。挫折しながら、悩みながら、迷いながらも、みんなに助けられて、いまがありますね」
──そもそも、なぜ赤ワインだったわけですか?
「ピノ・ノワールを植えちゃったし(笑)。もちろん、赤ワインを造ろうと思ってピノ・ノワールを植えたわけですけどね。僕の中に、突き詰めたいという思いがあったと思うんです。シャルドネやピノグリも植えたら、表現が曖昧になるじゃないですか。大きなワイナリーはありとあらゆる品種を植えて、ありとあらゆるワインを造ってますよね。でも、僕のような個人でやってる小さなワイナリーでいろんなことをやると突き詰めるのは難しい。器用な人間だったら出来るかもしれないけど、不器用な人間はピノ・ノワールで手一杯。僕のことです、はい。だって、10年やってもわからないことだらけなんですから。なかなか見えてこない部分もあるし、新しい疑問もどんどん出てくる。結局、ぶどうもワインも1年に1回しか出来ない。何度も繰り返して造ることが出来たら進化も早いと思いますよ。でも、それは叶わない。僕自身、あと20回かな、なんて思いながら、20回で何が出来るかを考えると、ピノ・ノワールで僕なりの表現をきちんとしたいわけです」
──10年間、ワインを造ってきて、曽我さんのワインに対する世間の評価は、たとえば「noma」のワインリストに採用されたことも含めて、非常に高いものだと思います。突き詰めたいという気持ちと、世の中の評判はどのようなバランスになっていますか?
「誰かと比べたい。世界と比べたい、という気持ちはあります。自分がどの位置にいるのかを知るためには、ひとつを突き詰める方が道筋がはっきりしますよね。だからピノ・ノワールに特化しているというのもあります。そうは言っても、ワインの場合、評価というものが一筋縄ではいかない部分もある。もしかしたら、本当の意味での評価は、ボトルに入って5年後だったりするでしょ。5年後に褒められても、そのときの僕は違う景色を見ているかもしれない。それがワイン造りの面白いところでもあり、難しいところでもありますよね。そう考えると、僕のワイン造りのゴールは、毎年『ナナツモリ』(ドメーヌ・タカヒコのフラッグシップワイン)1万本をきちんと世に出すことだと思っています。それはゴールでもあるけれど、スタートでもあります」
──いまはそれは達成している状況ですよね?
「どうにか出来ていますね。たとえば、1000本単位のワイナリーとなると、世界的には趣味の世界になってしまうんですね。ワイナリーとして、次世代にも繋げていくためにも1万本は重要な数字でもあるんです。スタートでもあると言ったのは、ワイナリーとしてきちんと生計を立てて、農業って楽しいんだよ、ワイン造りって面白いんだよっていうことを伝えていくことが役割だと思っているから。農業は自分の世代のことだけを考えてやるものではなくて、次の世代、次の次の世代を見据えないと続いていかないんですよ。じゃ、何をすればいいのか。僕はノウハウの共有が大切だと。企業秘密というのはもうやめにして、ワイナリー同士、いやもっとですよ、町全体で情報交換しながら、みんなで良くなろうと。みんなが良くなれば地域も発展します。まわりの人たちが真似をできるやり方、真似をしたいと思ってもらえるやり方をしないといけません。失敗は隠さずに共有、もちろん成功も共有。僕の失敗が余市のワイン造りの財産になっていくようにしたいんです。灰色かび病も含めて。僕しか出来ないワイン造りをやっているようでは、日本のワインの未来がなくなってしまう。日本というより、まずは余市の未来ですね。そこからじわじわと広がっていきたい」
──そのためにはどんなことが必要ですか?
「世界の農薬に関する見方、食に対する考え方がものすごいスピードで変化する中、そこに追いついていく必要があると思います。いいもの、駄目なもの、取り入れるもの、なくすもの、そこを見極めないと次に続いていきません。楽できるところは楽をしていいと思うしね。機械化のマイナス面は土を固めてしまうこと。土の微生物にいい環境をつくらないと有機栽培は難しい。でも、機械が助けてくれる部分も大きい。どう共存するか。収穫もそう。手作業がすべてではない。いい機械があれば取り入れたい。ハイブリッド(人工交配)品種だって、いまの僕には受け入れることはできないけれど、もしかしたら農薬より安全で、いいものが出来るのであれば、いつかは柔軟に対応していきたいという思いはありますよね」
──未来を考える中で、次の10年、ワイナリーを大きくしていこうとは考えていますか?
「ないです、ないです。それだけは、自信を持って言えますね」
──理由を教えてください。
「ワイナリーを大きくしようと思わないのは、実家の『小布施ワイナリー』を見てきたからのような気がします。僕が子供の頃、日本のワイン業界は本当に苦しい時代でした。スタッフに給料を払うために、家族は我慢することが当たり前でもあった。そういう状況を見てきて、もっと小さい世界でワインを造ることが出来たらなと思っていました。海外のワイナリーを見てきて、ブルースと一緒に『ココ・ファーム・ワイナリー』で働いたことで、小さくてもいいんだって思えるようになったんです。もともとワイン造りは家族でやってきたものじゃないかと。大きなワイナリーが250万本のワインを造るより、1万本を造るワイナリーが250軒あって、それぞれが個性的なワインを世に出した方が豊かだと僕は思います」
──ここ数年、国産ワインのマーケットは活況だと思いますが、曽我さんはどのように見ていますか?
「日本は雨も多いし、世界的にみてもどこにもない味わいのワインができる。世界の人たちも面白いと言ってくれるような状況が生まれつつあります。そこに市場があるというのなら、僕は出ていかなければならないと思っています。日本でしか出来ない味を確立させることで、世界が見えてくるはずです。ジョージアがひとつの成功事例ですよね。個性を持ったワインを造って、それを世界が欲している。日本の場合は、旨味という点をもっと伸ばすということだと僕は思います。世界のワインと同じものを造ろうというのではなく、僕らのワイン=日本のワインをどうやって造っていくのか。そのことを発信するためには、自分が力をつけることはもちろん、世界でも評価されないといけないと思います。たとえば、僕が日本ワインの強みとして旨味を謳っても、ただ言っているだけになっては意味がない。ここでワイナリーを始めた当初は世界に目を向けるという気持ちはまったくなかった。そういう中で『noma』に声をかけてもらったりすると、世界もマーケットなんだと思うようになっていった。世界へと飛び出すことは大事なんだと。これから10年は、その次の10年のために世界を意識しながら、余市ならでは、日本ならではのワインを造っていくんだなと。世界という大きな市場で勝負できる土壌が整えば、さらに新しい人が余市にやって来て、より活性化する。そうすれば、いまうちの息子が通っている小学校も生徒数が増える(笑)。農業に従事する者は、町と共とに生きていく。なんだかんだ喋ってきましたけど、これがもっとも言いたかったことです(笑)」
Domaine Takahiko
URL/www.takahiko.co.jp/
Photos:Tomo Ishiwatari Interview & Text:Eve Tark