People / Interview

大貫妙子インタビュー「レコードは、エネルギーが濃縮された缶詰のようなもの」

日本を代表するシンガーソングライター、大貫妙子。1974年に山下達郎らと伝説的なバンド「シュガー・ベイブ」を結成し、その後、ソロでも多くの名盤を世に送り出してきた。現在、世界的に日本のシティ・ポップが脚光を浴びる中、彼女のキャリア初期のアルバムが再び人気を集めている。1970〜80年代のシティ・ポップの総本山と言われたレコーディングスタジオ「音響ハウス」についてのドキュメンタリー映画『音響ハウス Melody-Go-Round』にも出演。当時の思い出、また、彼女にとっての“歌うこと”について聞いた。

「70〜80年代のレコーディングは、張り詰めた緊張感がありました」

──『音響ハウス Melody-Go-Round』には、大貫さんを始め、坂本龍一さん、高橋幸宏さん、松任谷由実さんなど錚々たるミュージシャンが多数出演されています。大貫さんにとって、音響ハウスはどんなスタジオだったのでしょうか。

「音響ハウスは、表現したい音がきちんと録音できるスタジオです。音は、空気の乾燥度や、もちろん演奏するミュージシャンによっても変わりますけど、そのスタジオならではの音というものがあるんですね。コンサートホールもそうですけど、空間はただの箱じゃなくて生き物です。いい音を聴かせたり、愛情ある仕事をすれば、どんどん音が良くなる。でも、最近は、ここのようないいスタジオはだいぶ減りました」

──音響ハウスからは、たくさんのシティ・ポップスの名盤が生まれました。今も、世界中の若い世代から、70〜80年代の日本のポップスが注目されていますが、その理由は何だと思いますか。

「あの頃は、まず、ミュージシャンがスタジオに集まって、個々の技術や音楽に対する姿勢がぶつかり合って融合して。その膨大なエネルギーを濃縮して1枚のレコードに詰め込んでいました。レコードはエネルギーの缶詰のようなものです。ここのように広いスタジオなら、各々ブースに入って、ライブの時のように一斉に演奏して録音することができます。緊張しますよね。でもその緊張感がいいんですけど。誰かが間違おうものなら、みんなに睨まれる(笑)。演奏は上手いのは当たり前。とても集中力が必要だし、全体を理解していないといけない」

──今は、コンピュータが発達して、自宅でも録音できるようになりましたよね。
「私が自宅でする仕事は、作曲したものを譜面にし、それをピアノで録音することだけです。そしてアレンジャーに送り、後日その人の仕事場に伺って構成を決めたりする。あとはミュージシャンとレコーディンスタジオに入って、仕上げていくシンプルな道程です。ディレクターやミュージシャンと、ここに生楽器を入れようかなんて話し合いながら、一緒に作り上げるのがレコーディングだと思っているし、いちばんワクワク楽しい時間ですから。一人で作っている方は寂しくないのかしら。どうなんだろう」

「40歳を過ぎた頃に、ようやく私の幕が上がった」

──時代の変化で言えば、レコードからCDになり、音楽配信、コロナ以降はライブ配信も一般的になりなした。曲を作るときに、聴く側の変化は意識しますか。

「あまり時代のことは考えていません。だって、曲を書き始めてリリースするまでに1年以上かかるわけですから。3年先くらいのことはなんとなく考えていますが。それより、好きな音楽を聴き込んだり、本を読んで言葉と出会ったり、そういう時間を大切にしていますね」

──それは若い頃から?

「10代の頃から憧れの洋楽のバンドをコピーしたり、その後シュガー・ベイブというバンドを経て、ソロになって。好きなことができる! と、あんなこともこんなこともしてみたいと。当時のまわりのミュージシャンも大好きだったサウンドでつくったのが『サンシャワー』ですが、歌ってみたら自分の声に合わなくて、すごくショックでした」

──その『サンシャワー』は1977年にリリースされましたが、今も世界中のシティ・ポップファンの間で争奪戦になっています。

「それは、大袈裟だと思いますよ(笑)。演奏は素晴らしいけど、私の声は消しゴムで消したいくらい。でも、自分が思うほど人はそう感じてはいないかもしれないので、こうして今も聴かれているんでしょう。自分としての反省点はたくさんあります。その後、いろいろアルバムをつくってきても、ずっとその連続です」

──2013年に出版された『私の暮らし方』の中で、「最近、ようやく歌うことが楽しくなった」と書いてらっしゃいましたが。

「そうですね。40歳を越えてからやっと、そういう気持ちになりました。それまで、ライブをするたびに、落ち込むばかりでしたから。でも、ステージは音楽家を成長させる場なのかもしれません。そこからに逃げて帰るわけにはいきませんから。だから身体も本気になる。そして身体はそれを忘れない、その積み重ねだと思います。自転車と同じ、最初は倒れて悔しいけれど。一度乗れるようになったら、何年乗らなくてもまた乗れるでしょ(笑)」

──デビュー当時から、ずっとスターとして第一線を走ってらっしゃるので、それは意外でした。

「いえいえ、スターっていうのは、松任谷由実さんや矢野顕子さんみたいな人を言うんですよ。当時は、はっぴいえんどのような和製ポップスを歌う女性シンガーが少なかったから、ちょっと目立っただけ。アルバムをつくるのは楽しいけれど、ステージはほんとに苦手で。デビューして最初の頃は、お客さまがハラハラしたって仰ってました(笑)。いつも、歌がちゃんと届いていないことをわかっていたし。ステージの幕が上がらないまま、そこで歌っているような感覚だった。でも、ある日、客席の後ろまで声が届いたことを実感したコンサートがあったんです。何がきっかけかはわからない。でも、そこでやっと私の幕が開いて、それからはステージで歌うことが苦でなくなりました。遅いよって感じですけど(笑)」

「日本語に誇りをもてば、幹がすっと立った音になるはず」

──その中で、ご自身を支えたものは何だったのでしょうか。

「ひとつのアルバムが終わると、もう次の制作準備に入る。その連続でしたから、悩んでいる暇はありませんでした。集中して曲を書く時間、そしてレコーディング、そのトラックをひたすら聴いて歌詞を考える。いつも歌詞が最後なんで。良いトラックは歌詞を呼ぶんですよね。昔、ユーミンと話していた時、 “私、ひとつの仕事が終わっても、絶対エンジン切らないのよね、ずっとアイドリング状態にしておくの”って言っていたのを思い出すんですよね。それとてもよくわかるんです。私ができることは最後まで自分で責任をもって見とどけること。人任せにはしないこと。私の支えですか? こういう職種をピラミッドにたとえるなら、それを支えてくれるスタッフ、ミュージシャンなどなど、すべての方たちです。きれいに積まれた石は頑丈で崩れない、ということでしょう」

──大貫さんの歌のもつ美しさは、ご自身との戦いの中で高められてきたのですね。

「戦いとは、少し大袈裟な気がしますけど。好きなことを続けられるだけで幸せですから。洋楽を聴いて育って、そのサウンドに憧れて始めた音楽でも、日本語で歌うとなんか違う。その葛藤はありましたが、だからと言って英語で歌えばいいってものではないことも知っっている。試行錯誤しながら、過去につくったものを聴き返して徐々に今のスタイルになったんです。説明しすぎない、聴いてくださる方の、生きてきたご自身の思い出のどこかに、ふっと寄り添えるような。なので、私の歌詞は短かいです。音楽は言葉だけではなくメロディやサウンドも含めてひとつの世界をつくりあげるもの、と思っているので。日本語は知れば知るほどよくできている。例えば『自分』とは、『自然の一部分』の短縮形だそうです。日本語は舌の奥、英語の発音は舌先を使います。日本語の“さしすせそ”がちゃんと言えない若い人が増えたな、とは感じます」

──日本の曲は、言葉の発音が曖昧だと感じられるようになったのは最近ですか?

「いつ頃からかはっきりわかりませんが、私のレコーディングは海外も多かったので、日本語は彼らの耳にどう響いているのか知りたくて、たずねたことがあります。“日本語は、きれい”と、何度か言われました。多分、お世辞ではないと思います(笑)。画期的だったのは「はっぴいえんど」でしたね。松本隆さんの歌詞が日本のロックを変えたと思っています。文化というのは、他国から輸入したものと混ざりあって、発酵して美味しくなることもあります。いずれにしても人の創るものですから。ただ自分が感じる美しいと思うもの、それを自分の幹として育てれば、いろいろな樹が寄り添う美しい森ができるのではないかと思います」

──最後に、大貫さんの衣装やこの映画にも出てくる私服もすごく素敵なんですが、ファッションのポリシーがありましたら教えてください。

「普段は〈コム デ ギャルソン〉か〈45rpm〉。ステージ衣装はオーダーメイドです。〈コム デ ギャルソン〉は1970年代からずっとです。川久保玲さんのつくる服は、デザインもですが生地が良くて、私が数年着た後、母が着て。母は亡くなりましたが、また私が着ています。コム デ ギャルソンを着ていた母を見て、むしろ若い子が着るより素敵だと思ったんです。大人になるほど似合う服をつくるっていうことが、ものをつくることの基本なのではないかと学びました。ずっと尊敬しています」

『音響ハウス Melody-Go-Round』

1974年に設立され、昨年45周年を迎えた東京のレコーディングスタジオ〈音響ハウス〉。そこにスポットを当てたドキュメンタリー映画が公開される。YMO時代からこのスタジオを愛用した坂本龍一や高橋幸宏、松任谷由実、松任谷正隆など、日本を代表するミュージシャンの証言や過去の貴重な映像から、このスタジオが果たした役割、そして1970〜80年代、日本のシティ・ポップが生まれた当時の雰囲気に迫る。また、ギタリストの佐橋佳幸とエンジニアの飯尾芳史を中心に、大貫妙子などが参加し、13歳(当時)のHANAがボーカルと務めた新曲「Melody-Go-Round」の制作風景も収めている。

出演/佐橋佳幸、飯尾芳史、高橋幸宏、井上鑑、滝瀬茂、坂本龍一、関口直人、矢野顕子、吉江一男、渡辺秀文、沖祐市、川上つよし、佐野元春、David Lee Roth、綾戸智恵、下河辺晴三、松任谷正隆、松任谷由実、山崎聖次、葉加瀬太郎、村田陽一、本田雅人、西村浩二、山本拓夫、牧村憲一、田中信一、オノセイゲン、鈴木慶一、大貫妙子、HANA、笹路正徳、山室久男、山根恒二、中里正男、遠藤誠、河野恵実、須田淳也、尾崎紀身、石井亘<登場順>
主題歌/ 「Melody-Go-Round」 HANA with 銀音堂
(作詞:大貫妙子 作曲/佐橋佳幸 編曲:佐橋佳幸、飯尾芳史 ブラス編曲:村田陽一)
監督/相原裕美

©2019 株式会社 音響ハウス
11月14日(土)より、渋谷ユーロスペースほか全国順次公開
onkiohaus-movie.jp/

Photos:Chikashi Suzuki Interview & Text:Miho Matsuda Edit:Chiho Inoue

Profile

大貫妙子Taeko Onuki 東京都生まれ。1973年、山下達郎らとシュガー・ベイブを結成。1976年に『グレイ スカイズ』でソロデビューし、以来、27枚のオリジナルアルバムをリリース。日本のポップ・ミュージックにおける、女性シンガーソングライターの草分けのひとり。映画『Shall we ダンス?』(96年)『東京日和』(98年)のほか、数多くのサウンドトラックも手がける。また、1992〜2000年に発表した10枚のアルバムを、11月より順次レコード盤として再リリース。12月20日には人見記念講堂にて「大貫妙子 Symphonic Concert 2020」を開催。UNIVERSAL MUSIC JAPANオフィシャル https://www.universal-music.co.jp/onuki-taeko/  大貫妙子 Symphonic Concert 2020 https://tickets.kyodotokyo.com/onuki2020

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