ニューヨークが認めた異才、松山智一が語るアーティストの使命
キース・ヘリング、バンクシーらが名を連ねるニューヨーク随一の壁画に今年、一人の日本人アーティストが抜擢された。松山智一(まつやま・ともかず)ーー経験ゼロで渡米し、完全独学ながらも作品のコレクターにはビル・ゲイツやドバイ王室が名を連ねる異色の存在。この10月には『情熱大陸』(※1)に登場し、新たなプロジェクトも進行中と、日本でも注目急上昇中の才能に迫った。
「アート」というカタカナ言葉が、子どもからお年寄りまで “何か素敵な雰囲気” といった程度のニュアンスで日々濫用される一方、社会や権力と表現との関係について成熟した議論のないままに、危機感が募るばかりの現在の日本。しかし、世界のアートシーンはそんなものではない。連綿たる西洋美術の歴史の上に揺るぎない評価と市場のシステムが築き上げられ、その思想体系や文脈のもとに “表現としての価値” が判断される。「なぜそれを作るのか」「なぜその表現でなければならないのか」……とくにニューヨークは世界中から星の数ほどのアーティストが集まり、熾烈な競争が繰り広げられる街。アーティストとは抜きんでた表現性とともに、絶えざる審判のなかでも揺るがず動じず、オリジナリティを発揮し続けなければならない存在なのだ。
そのなかで、まったくの独学で自らの表現を切り拓き、ついに街を象徴する巨大壁画を任された日本人がいる。彼はどのようにして “自分だけの表現” を見つけ出し、ニューヨークの人々からリスペクトされるアーティストとなったのか。中国での個展を控えて一時帰国中の松山智一に、これまでの軌跡と、ニューヨークで戦い続ける理由を直撃した。
経験ゼロ。“己の表現”を求め、戦いの地・ニューヨークへ
——松山さんはブルックリンに自身のスタジオを構え、平面作品から立体、近年はパブリックアートなども手がけています。どんなコンセプトのもとに、表現を続けているのでしょう。
「コンセプトについて一言でいえば、自分がいま生きている時代感を表現すること。現代は異文化が入り混じり、国境や人種などの境界が曖昧になっている。その曖昧さを表現しようとした時に、ニューヨークで活動している日本人という僕自身のアイデンティティが影響してくるんです」
——そもそも、アートの道に進もうと思ったきっかけは?
「それには、幼少期の体験が深く関係しています。地元は岐阜県の高山で、うちの祖父は町で初めてのタクシー会社を始めた人でした。でも父は海外への憧れから、家族みんなでアメリカの西海岸へ渡りました。それが小学校3〜6年生の頃のことで、帰国後に言葉遣いが変だと言われたりして、日本と海外のどちらにも馴染めないという帰国子女にまつわるアイデンティティの問題を身をもって体験しました。一方でその頃は、サーフカルチャーやスケートボードカルチャーなど西海岸特有の文化が元気だった時代。その影響もあって帰国後はスノーボーダーとして活動するようになったんですが、上智大学の経済学部に通いながら、スポンサーが付いて海外へ遠征したり、雑誌の取材を受けたりもしました。周囲の学生たちが就職活動に際して、やりたい仕事ではなく企業ブランドで会社を選んでいるのに対し、自分は少なくとも表現としてスノーボードをやっているという自負があったんです。でも大ケガをしてしまい、プロへの夢が絶たれた時に、何か表現として追求し続けられるものはないかと思い、商業デザインを勉強しようとニューヨークへ渡りました」
——スノーボードといえば、カルチャー的に音楽やアートとも親和性があり、デザインとも深い関わりがあると思います。でもなぜ、西海岸ではなく東海岸のニューヨークを選んだのでしょう。
「その時点で25歳になっていて、スタートが完全に出遅れている以上、近道をするしか選択肢がないと思ったんです。アンディ・ウォーホルやキース・ヘリングの作品は好きでしたし、世界の頂点であるニューヨークで成功すれば、世界で成功したのと同じになる。それで建築・デザイン系大学院のプラット・インスティテュートへ入学したのですが、自分にはデザインの授業がとても退屈だった。日本には横尾忠則さんや田名網敬一さんのように、デザイナーでありアーティストでもあるような面白い方がたくさんいますが、授業ではデザイナーは個性の表現ではなく、クライアントの課題解決に徹する専門家であるべきという指導が徹底されていた。そんななかで、初めてアーティストという人種を目の当たりにしたんです。KAWSのほか、自分と同世代のストリートアーティストたちと交流する機会があって、『自分もやってみよう』と思い、キャンバスとアクリル絵具を買って描き始めました」
熾烈を極めるアート界。武器はヒップホップの技法と見つけたり
——ということは、アートの理論やテクニックを誰にも教わることなく…。
「そう、完全に独学です。でも自宅に籠もって描いていても、誰の目にも止まらない。作品を世の中に出す方法を考えて、必然的に屋外で描くようになりました。その頃に住んでいたのはブルックリンのウィリアムズバーグですが、当時は治安も悪く、ちょうどアーティストたちが屋外で描き出した頃。それなら、このエリアで一番大きいのを描いてやろうと、1軒1軒頼み込んで回り、壁に描いているうちに、地元のカルチャー誌が特集してくれたんです。無名なアーティストでも面白いと思ったら載せる、さすがニューヨークですよね。その記事がナイキの目にとまり、コラボレーションのオファーが来て初めて、アーティストを生業として名乗ることができるようになりました。同時期に日本の仲間たちが原宿でブランドを立ち上げたりしていたこともあり、Tシャツを手がけたりと、つながりが広がったことも大きかったですね」
——現代アートの世界では、美大を卒業して著名ギャラリーの契約アーティストとしてスカウトされるのが主流のキャリアパスになっていますが、そうではなく、自分の手で人脈と評価を広げていったわけですね。
「当時はグラフィティがアートとして評価され始めて、壁にぶら下がって命がけでスプレーをしているようなハードコアな人もいれば、ポスターを貼ってまわる人もいたりと、いろんな表現方法のアーティストが出てきた頃。そのなかで、自分なりにさまざまなカルチャーの要素を混ぜ合わせながら表現領域を切り拓いてきた感じですね。でも、ギャラリーと仕事をするようになってからは、そういったストリートカルチャー文脈の表現は一切やめました。というのは、クリエイティブのヒエラルキーの中でアートとカルチャーには大きな隔たりがある。カルチャーではなく、アートの領域まで自分を高めようと決意したからです」
——とはいえ、ファインアートの領域でアーティストとして認められるには、連綿たるアートの歴史をふまえながら “なぜいまそれをやるのか” という必然性が求められます。しかもニューヨークともなれば、キュレーターや批評家たちの追求は並大抵の厳しさではありません。
「まさにそうです。というのも、現代アートはいわば “ルールの更新” なんですよ。かつて存在しなかったルールを作ることが求められる以上、常に新しい表現をやり続けなければならない。例えばマルセル・デュシャンは、便器にサインしたものを作品だと表明することで、芸術という概念自体に革命を起こし、アンディ・ウォーホルはアメリカの大量消費社会を複製可能なシルクスクリーン作品で体現して、『アートとは何か』というルール自体を書き換えたわけですよね。そうした歴史をふまえ、自分に必要なのは何か、どうすれば進化し続けられるのか、片っ端からアーティストの作品集や映像資料を見て考え続けました」
「そのなかで浮かび上がってきたのが、美大で学んできた連中と比べて自分は “できない” という状況を長所にすること。まず、写実的な絵は描かない。技術がない以上、概念で勝負するしかないわけですが、ヒントの一つになったのが音楽です。例えばヒップホップの成り立ちは、楽器を弾けない人たちが、既存の楽曲の一部をサンプリングし、ループさせることでブレイクビーツを発明したこと。そこから発展した “エディット(編集)” の手法がファッションなど音楽以外のカルチャーにも広がっていったわけですが、僕の場合はそれをアートに応用しようと考えました。アートにはアプロプリエーション(引用)やシミュレーションと呼ばれる技法があり、ピカソがベラスケスの絵を描いたり、ロイ・リキテンスタインがコミックタッチで名画の構図を引用したりしている。それを僕の場合は、葛飾北斎やピカソ、ジャクソン・ポロックなど、多くの表現を引用し、それらを現代という情報過多な時代を反映して一つの絵の中に集約することで、マッシュアップ的に絵画を作り上げていったわけです」
“出る杭” として十数年。攻め続ける表現者のヴィジョンとは
——モチーフとしても、伝統的な大和絵の構図や花鳥風月を引用する一方で、ポップアート的な色面構成のパターンを組み合わせるなど、極めて対比的な表現が見受けられますが、その意図はなんでしょう?
「古典と現代、東洋と西洋など、対極にあって普通だったら交わらないものを一つの画面に集約し、ごちゃ混ぜにすることで、初めて浮かび上がってくるものがあるんです。それがとても面白い。例えば、ウィレム・デ・クーニングのタッチを人物の洋服に、サム・フランシスを家具のテキスタイルなどに引用しつつ、安藤広重や伊藤若冲のモチーフと同居させる。そこで立ち上がってくる曖昧さが、僕の作品の一つのポイントになっていると思います。その上で重要なのは、日本的な要素を入れ込みながらも、作品では “僕自身の問題” を語らないこと。そうすることで、好きなカルチャーを通して育まれた自分のフィルターを通しながらも、僕らが生きているこの時代の感覚を表現できると考えています」
——近年はミューラル(壁画)やモニュメントなど、パブリックアートも手がけていますが、作品のサイズが大きくなるだけでなく、街の景観や文脈との接続性も重要になり、アート好き以外の人々からの視線にも晒されるなど、難しい部分もあると思います。そこはどう意識されていますか?
「パブリックアートというものは、アーティスト自身が発信していかないと絶対に実現できない。それが僕の考えです。なぜなら、ただ待っていても起用されるはずがないからです。この10月には、80年代のキース・ヘリングに始まり、昨年はバンクシーが描いたことで有名な『バワリー・ミューラル』を描きました。マンハッタンのど真ん中で、1日に何万人もの人が行き交う、ニューヨークで最も注目される壁画のアーティストに抜擢されたんです。11月にはロサンゼルスのビバリーヒルズで、地下鉄工事のための仮設壁に数十メートルサイズの絵を描きますし、日本でも大きなプロジェクトが進行中です」
——でもなぜ自分の手で、より大きなものを作り続けなければならないのでしょうか?
「例えば日本でも、岡本太郎のように自分で発信しきった人がいるわけですよね。1970年の大阪万博で、建築家・丹下健三の大屋根をぶち抜いて巨大な『太陽の塔』をズドーンと建てちゃう。誰もが度肝を抜かれたあの塔だけが、いまも時代を超えた象徴として残っている。それがアートの持っているパワーだと考えると、“作る” ことは氷山の一角に過ぎません。自分自身を発信したり、粘り強い交渉を続けたりすることこそ、アーティストの大切な使命です。僕自身、そうやって “出る杭” であり続けることで、十数年かけてニューヨークで認知されてきたわけですから」
——ニューヨークで活動し続ける日本人アーティストといえば、御年87歳の “ギュウチャン” こと篠原有司男(※2)が思い浮かびますが、何があっても出る杭として打たれ続けることで、個人の表現の中に社会性や時代性が必然的に宿ってくるわけですね。
「まさにそう思います。ギュウチャンだって、最初は『何がボクシング・ペインティングだ』と笑われることもあったと思うんです。でも50年もの時間を経て振り返った時に、ロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズと同時代を生きてきたアーティストの作品として、一つの実体が現れてくる。彼にとってニューヨークはそのための戦いの場だし、僕にとっても、ニューヨークを去る時は制作活動をやめる時だと思います。だからそれまでは社会にとことんコミットして、歴史の中に自分が生きた時代の空気感を残したい。それがアーティストとしての使命であり、やり続ける理由だと思っています」
(※1)MBS『情熱大陸』Vol. 1073(2019年10月20日放送分)松山智一 10月27日(日)22:59まで無料見逃し配信中。
Interview & Text:Keita Fukasawa