本年度ノーベル文学賞作家、アニー・エルノーの若き日の実体験。映画『あのこと』 | Numero TOKYO
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本年度ノーベル文学賞作家、アニー・エルノーの若き日の実体験。映画『あのこと』

2021年ヴェネチア国際映画祭での最高賞受賞を皮切りに、世界の映画賞を席巻した見逃せない傑作『あのこと』が、ついに日本でも公開。舞台は1960年代、法律で中絶が禁止されていたフランス。望まぬ妊娠をした大学生のアンヌが、自らが願う未来をつかむために、たった一人で戦う12週間が描かれる──。

フランス映画が贈る最尖鋭の衝撃体験。デリケートな問題領域を鮮烈に切り開く、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞作!

去る2022年10月に発表されたノーベル賞。今年の文学賞を受賞したのは、自らの実体験をもとに創出する小説──“オートフィクション”の名手として知られる82歳のフランスの作家、アニー・エルノー(1940年生まれ)だった。そして彼女が2000年に発表した『事件』を映画化したのが、『あのこと』だ。監督はこれが長編2作目となる、新進気鋭のオードレイ・ディヴァン(1980年生まれ)。文学から映画へ──まさしく世代を超えた表現者同士の間でバトンを引き継ぐように生まれたこの衝撃的な傑作は、昨年(2021年)9月、ポン・ジュノが審査員長を務めた第78回ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞に輝いている。

さて、タイトルの“あのこと”(原題: L’événement/英題:Happening)とは何か? 時代は1960年代(原作に倣うなら1963年)。主人公は大学生のアンヌ(アナマリア・ヴァルトロメイ)。学生寮で暮らす彼女は友人たちとバーに繰り出す。ロックンロールが流れるダンスフロアでナンパしてくる社会人の男を交わしつつ、お酒ではなくコカコーラを飲む。

いかにも当時らしい青春を謳歌する姿。また文学専攻の彼女は教師志望で、成績は非常に優秀。教授からの信頼も厚い。日常的な会話の中でカミュやサルトルが話題にのぼる時代、友人たちも彼女の聡明さには一目置いている。

何の問題もない日々。ただアンヌはひとつだけ、心配事に苛まれていた。予定日になっても、まだ生理が来ないのだ──。

望まぬ妊娠。これは原作者アニー・エルノーが、ルーアン大学在学中に実際経験したことだ。主人公アンヌの生年月日は、もちろんエルノーと同じく「1940年9月1日」の設定。小さなカフェ兼食料品店を営む両親のもとで育ったアンヌ(≒アニー・エルノー)は決して裕福な出自ではない。学業を放棄するようなことが起これば、自己実現への道が一気に絶たれてしまう。

ところが、その頃のフランスでは人工妊娠中絶は違法だった。例えば1943年、ノルマンディの平凡な主婦マリー=ルイス・ジローが堕胎の手助けを次々と請け負い金銭を得ていた罪で死刑に処された事件が、イザベル・ユペール主演の映画『主婦マリーがしたこと』(1988年/監督:クロード・シャブロル)で描かれている。フランスで中絶が合法化されたのは1975年になってから。つまり非合法──誰にも頼ることができない八方塞がりの状況下で、「法の網をくぐる必要のあるゲームをとことんやることができなかった」(原作より)アンヌは壮絶な堕胎体験へと突き進んでいくことになる。

「ある月曜日、編み針を持って両親の家から戻ってきた。それは、ある年の夏、自分のジャケットを編もうとして買い、未完成のまま家に置いていたものだった。メタリックブルーの長い編み針。解決策が得られないわたしは、独りでやろうと心を決めていた」(ハヤカワepi文庫『嫉妬/事件』より/訳:菊地よしみ)──。

こういった「わたし」≒エルノーが紡ぎ出す硬質で簡潔な原作の「文体」を、監督のオードレイ・ディヴァンは“体感型シネマ”の「文体」に置き換えた。画面のアスペクト比をスタンダードサイズに当たる1.37:1にし、ディテールとアクションに焦点を当て、常にカメラとアンヌを感覚的に同期させる。かくして私たち観客は、ひとつの極限状況をアンヌと共に彷徨い歩くことになる。この主人公と一体化させられるような、ダイレクトに身体感覚へと訴えかけてくる「文体」から、戦時中のアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を舞台にしたカンヌ国際映画祭グランプリ受賞作品、ハンガリー映画『サウルの息子』(2015年/監督:ネメシュ・ラースロー)を連想する向きは多いのではないか。ディヴァン監督と、主演のアナマリア・ヴァルトロメイ(1999年ルーマニア生まれ)は、「アンヌは兵士だ」という合言葉を胸にして撮影に臨んだという。

舞台こそ1960年代だが、本作『あのこと』が撃つのは当然にも「いま」の世界の閉塞や不寛容である。周知の通り、最近のアメリカでは保守化の波に伴って中絶の権利を制限する流れが大きくなり、それに反発する声がリベラル側から強く上がっている。こういった現状を受け、『17歳の瞳に映る世界』(2020年/監督:エリザ・ヒットマン)や『セイント・フランシス』(2019年/監督:アレックス・トンプソン)など、中絶という主題を新しい視座で扱う傑作も生まれてきた。そしてフランスでは『TITANE/チタン』(2021年/監督:ジュリア・デュクルノー)や『ファイブ・デビルズ』(2021年/監督:レア・ミシウス)など、出産や子育て、母性といった主題を戦闘的に問い直す異色の快作も登場している。

女性のエンパワーメントが映画表現を驚異のスピードで更新していく中、『あのこと』はひとつのピークを示す成果と呼んでも過言ではないだろう。これまでスクリーンで可視化されなかった事象──映画のフレームという特権的な場所に、過去浮上してこなかったものを新たに表象させようという果敢な試み。その尖鋭性は、従来の美や快不快の法則を転倒させるショッキングな痛みを伴うものでもあるが、私たちは目をそらさない必要がある。そのためにも、最後に原作からエルノーの言葉を引いておこう。

「この種の話は、苛立ち、もしくは反発を引き起こすかもしれない。あるいは、悪趣味だと非難されるかもしれない。何であれ、あることを経験したということが、それを書くという侵すべからざる権利を与えてくれるのである。真実に優劣の差はない。それに、この経験との関係を最後まで突き詰めないならば、わたしは女性の現実をおおい隠すのにひと役果たすことになるし、この世の男性支配に与することになってしまう」──。そう、『あのこと』が差し出すのは、これまで一線の向こう側に置かれてきた「真実」と「現実」なのである。

『あのこと』

監督/オードレイ・ディヴァン 
出演/アナマリア・ヴァルトロメイ、サンドリーヌ・ボネール
原作/アニー・エルノー「事件」
12月2日(金)より、 Bunkamuraル・シネマ他 全国順次公開
https://gaga.ne.jp/anokoto/

配給:ギャガ
© 2021 RECTANGLE PRODUCTIONS – FRANCE 3 CINÉMA – WILD BUNCH – SRAB FILMS

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Text:Naoto Mori Edit:Sayaka Ito

Profile

森 直人Naoto Mori 映画評論家、ライター。1971年、和歌山県生まれ。著書に『シネマ・ガレージ~廃墟のなかの子供たち~』(フィルムアート社)、編著に『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)ほか。『週刊文春』『朝日新聞』『TV Bros.』『シネマトゥデイ』などでも定期的に執筆中。 YouTube配信番組『活弁シネマ倶楽部』でMC担当中。

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