今だからこそ私たちに必要なストーリー。映画『アイダよ、何処へ?』 | Numero TOKYO
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今だからこそ私たちに必要なストーリー。映画『アイダよ、何処へ?』

わずか25年前のボスニアで何が起こったのか? 戦後ヨーロッパ最悪の集団虐殺事件の真実に迫った最高傑作『アイダよ、何処へ?』が公開される。悪夢のような惨劇に真正面から向き合い、人間の尊厳を踏みにじるジェノサイドの残酷性やかつての隣人、知人同士が傷つけ合う戦争の空しさを観る者に訴えかける衝撃的な作品でありながら、エンディングでは未来への希望がきらめく。

アカデミー賞国際長編映画賞ノミネートを果たした稀代の衝撃作 ボスニア紛争の中でも最大の悲劇──「スレブレニツァの虐殺」をひとりの勇気ある女性の視点から描く

第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の内戦とも呼ばれる、ボスニア紛争(1992年3月~1995年12月)。その中でも最大の無残な悲劇として伝えられるのが、「スレブレニツァ・ジェノサイド(虐殺)」だ。 東欧のバルカン半島北西部に位置する共和制国家、ボスニア・ヘルツェゴヴィナがユーゴスラヴィア連邦からの独立を宣言したことで勃発したボスニア紛争。 約3年半あまりの間に約20万人の死者、200万人以上の難民を出した。その最終局面に当たる1995年7月、国連によって「安全地帯」に指定されていたはずのボスニア東部の街、スレブレニツァに、セルビア人勢力の共和国軍が警告を無視して侵攻。ほんの数日間のうちに、なんと8000人以上にのぼるボシュニャク人の住民処刑を行った。 1974年にボスニアの首都サラエボで生まれたヤスミラ・ジュバニッチ監督は、青春期に直面したこの紛争の傷跡にこだわって映画作りを続けている。第56回ベルリン国際映画祭で金熊賞に輝いた長編デビュー作『サラエボの花』(2006年)や、続く『サラエボ、希望の街角』(2010年)など。そして今回の最新作『アイダよ、何処へ?』は、紛争後を背景にしていた前2作とは異なり、ボスニア紛争末期の悪夢のような惨劇に真正面から向き合ったパワフルな衝撃作だ。2020年の第77回ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門に正式出品され、2021年には第93回米アカデミー賞国際長編映画賞にノミネート。ほかにインディペンデント・スピリット賞外国映画賞を受賞するなど、ジュバニッチ監督の最高傑作として絶賛を浴びている。

主人公は、オランダ人部隊による国連保護軍で通訳を務める元・教師のアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)。彼女はボシュニャク人であり、セルビア人勢力からは「敵」と見なされる立場である。

1995年7月11日、東部ボスニアの街スレブレニツァがセルビア人勢力の侵攻によって陥落。避難場所を求める2万人以上の市民が、街の外れにある国連施設に殺到した。国連軍の通訳という職務に当たりながら、命の危険に晒された夫と二人の息子の身を案じるアイダ。避難民が押し寄せて、大混乱に陥った国連施設の極限状況。そんな中、スレブレニツァを支配したムラディッチ将軍率いるセルビア人勢力は、国連軍との合意を一方的に破り、ボシュニャク人たちの処刑を始める。アイダは家族や同胞のため、あらゆる手を尽くそうと施設の内外を奔走するが……。

記録資料や生存者の証言などの綿密なリサーチに基づき、集団虐殺というテーマに取り組んだジュバニッチ監督は、妻であり母親でもある一人の女性を物語の中心に据えた。主人公アイダの視点を通して、加害側となるセルビア人勢力と、相対する国連保護軍のオランダ人部隊、その狭間で巨大な被害に遭うボシュニャク人の住民たち──という、スレブレニツァの虐殺をめぐる“三つの立場”と各々の行動を映し出していく。

国連職員であり、家庭人であり──という公私の狭間で幾度となく葛藤やジレンマに苛まれるアイダは、それぞれのボーダーを忙しく行き交う存在だ。人命に関わる非常事態なのに満足に対処できない国連軍のお役所仕事にも翻弄されつつ、彼女はこの紛争の背景となる対立構造の複雑さも体現する。例えば紛争が始まる前には、ボシュニャク人とセルビア人は別に敵対していなかった。かつて教師をしていたアイダに、いまはセルビア兵になった元・教え子が「先生」と思わず呼びかけるシーンなど、ハッとさせられる。

ジュバニッチ監督は国連施設の内外という限られた空間の混沌をダイナミックに演出する。臨場感たっぷりのドキュメンタリー・タッチには生々しい迫真性と濃密なサスペンスがみなぎる。編集を務めたヤロスワフ・カミンスキは、パヴェウ・パヴリコフスキ監督の『イーダ』(2013年)や『COLD WAR あの歌、2つの心』(2018年)などを手がけたポーランドを代表する名手。ジュバニッチ監督はスリラー映画的な要素を醸すためにカミンスキの編集の力を借りたと語っている。

もちろん膨大な数の人間たちが登場する大群像劇でもある本作の重要な牽引力となるのは、主演女優ヤスナ・ジュリチッチの鬼気迫る演技だ。またハードコアと呼べる苛酷な苦境を描きつつ、本作は直接的な暴力描写を注意深く避けていることにも注目したい。ラストに出るテロップ──「スレブレニツァの女性たちと、殺害された8372名の息子、父、夫、兄弟、いとこ、隣人に捧ぐ」との言葉は、かつて実際にこの紛争を経験したジュバニッチ監督の未来への祈りのようだ。

『アイダよ、何処へ?』

監督/ヤスミラ・ジュバニッチ
出演/ヤスナ・ジュリチッチ、イズディン・バイロヴィッチ、ボリス・レアー、ディノ・バイロヴィッチ、ヨハン・ヘルデンベルグ
9月17日(金)より、全国順次公開
aida-movie.com

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Text:Naoto Mori Edit:Sayaka Ito

Profile

森 直人Naoto Mori 映画評論家、ライター。1971年、和歌山県生まれ。著書に『シネマ・ガレージ~廃墟のなかの子供たち~』(フィルムアート社)、編著に『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)ほか。『週刊文春』『朝日新聞』『TV Bros.』『シネマトゥデイ』などでも定期的に執筆中。 YouTube配信番組『活弁シネマ倶楽部』でMC担当中。

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