松尾貴史が選ぶ今月の映画『関心領域』
空は青く、誰もが笑顔で、子どもたちの楽しげな声が聞こえてくる。そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から黒い煙が上がっている。時は1945年、アウシュヴィッツ強制収容所の隣ではある家族が幸せに暮らしていた……。カンヌ国際映画祭でグランプリに輝き、アカデミー賞では国際長編映画賞と音響賞の2部門を受賞した映画『関心領域』の見どころを松尾貴史が語る。(『Numero TOKYO(ヌメロ・トウキョウ)』2024年6月号掲載)
人を狂わせる戦争
「関心領域」とは何でしょうか。英語では、この映画の原題になっている「THE ZONE OF INTERREST」なのですが、ナチスの親衛隊が作った用語のようです。アウシュヴィッツ強制収容所を取り囲む40平方キロメートルの地域を指す言葉です。しかし、日本語のニュアンスとしては、また別のイメージが湧いてしまいます。
ウクライナやガザで起きていることとは関係ないかのように、私たちは貧しいながらも楽しく日々を送っています。「まさか二度と第二次世界大戦のような惨禍が人類に訪れることはないだろう」という正常性バイアスがかかっているだけで、実は恐怖と背中合わせになっていることを「あえて」見ないようにしているのかもしれません。
アウシュヴィッツの強制収容所では、人々を焼き殺す設備がフル稼働していますが、そのすぐ隣にある民家では、すこぶる平和な生活が営まれています。そこに住む人たち、少なくとも大人は隣の施設で何が行われているかをよく知っています。しかし、気に留める様子もなく、極めて平和な暮らしをしているのです。この家の主人がどういう立場であるかは、次第にわかってきます。しかし家ではいいお父さんであり、奥さんも使用人たちに恵み深く優しく接しています。物語の中で、この奥さんの業の深さが強烈です。自分の情緒で、如何ようにも変貌する様が何とも象徴的なのです。
庭園や温室、家庭菜園、プール、裏の川でハイキングが楽しまれる側で、阿鼻叫喚の大量虐殺の地獄絵図が。しかし、作品中それが生々しく描かれることはありません。子どもが就寝するときなどに塀の向こうから微かに聞こえてくる声や物音が、えも言われぬ恐怖を感じさせるのです。地味ですが、確実に恐怖が折り重なって行きます。今回の米アカデミー賞で、国際長編映画賞とともに音響賞を獲得した所以でしょう。
作品全体を通して、恐ろしいほどに客観的な描き方をしているのが、逆に不気味さを倍増させるのです。兎にも角にも、人間というものはよくもこれほど残酷なことができたものです。戦争というものは、ことほど左様に人を狂わせるのです。日本にはそんなことはもう起きないとたかを括っていてはいけません。すぐそこに、その突破口を開こうとするものどもが蠢いているのです。殺傷能力のある兵器を造る、戦闘機を輸出する、憲法を失効させることができる緊急事態条項を創設しようとするなど、気がつけば戦争はすぐそこまで来ているのです。日本が造った武器で殺される人が、またそれによって日本を憎む人たちが出てきてしまうのです。総理大臣があからさまに紛争の当事者の片方に肩入れするという意思表示を国際舞台で演じてしまっているのですから。
『関心領域』
監督・脚本/ジョナサン・グレイザー
出演/クリスティアン・フリーデル、ザンドラ・ヒュラー
5月24日(金)より、新宿ピカデリー、TOHOシネマズ シャンテほか全国公開
https://happinet-phantom.com/thezoneofinterest/
配給/ハピネットファントム・スタジオ
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Text:Takashi Matsuo Edit:Sayaka Ito