松尾貴史が選ぶ今月の映画『博士と狂人』
初版発行まで70年以上の歳月をかけた、世界最高峰と称される『オックスフォード英語大辞典』通称OED。世界に冠たる辞典の礎を築いたのは“異端の学者”と“殺人犯”だった……。名優メル・ギブソン&ショーン・ペンの共演も話題の映画『博士と狂人』の見どころを松尾貴史が語る。(『ヌメロ・トウキョウ(Numero TOKYO)』2020年11月号掲載)
「言葉」という歴史をめぐって
大工さんは自分たちの使う道具の管理やメンテナンスに関しては、その技と愛情を総動員するものと思いますし、料理人は包丁や調理器具など命の次に大切にするものだと思います。音楽の演奏家は、自身の用いる楽器の手入れに細心の注意を払い、チューニングなどの調整にも余念がありません。
翻って、アナウンサーやタレント、お笑い芸人と呼ばれる人たちは、自分たちが商売道具にしている「言葉」というものに対して、どれほどの愛情とメンテナンスを施しているでしょうか。もちろん中にはすこぶる洗練された言葉を用い、日々研鑽を積んでいる人もいるのでしょうが、テレビのバラエティ番組などを見ていると、暗澹(あんたん)たる気持ちになることもしばしばです。
「言葉は生き物だから」などとどこかで聞きかじった陳腐な擁護をする人もいますが、進化、洗練ではなく 明らかな退化であるにもかかわらず放置するのは、私たちの子や孫のためにならないと感じます。
さて、なぜこのような愚痴が湧いてしまったかというと、映画の登場人物の言葉についての一連の台詞に感銘を受けたからです。メル・ギブソン扮するジェームズ・マレー博士は実在した人物です。日々、進化、あるいは劣化し続ける言語を流れとして客観的な記録にとどめようという信念を持っていました。彼は驚異的な語学の知識を独学で身につけた異端の言語学者で、全12巻の初版の発行までに70年を要したというオックスフォード英語大辞典の編纂に尽力した中心人物で、強烈なプレッシャーを跳ね除けアクシデントを乗り越え偉業を成し遂げた人です。
世界最大の辞書の編纂は、それはもう気の遠くなるような作業だったでしょう。どれほどの時間と労力と知力を費やしたのか、全くの想像の外です。それぞれの語句の項目には、使用例として 引用が記されますが、全ての単語にその対象となる資料を探し出し抜き書きする作業は膨大かつ煩雑で、スタッフのストレスは極限にまで膨らんでいました。
そんな折に、強力な助っ人が現れたのです。殺人犯として収監されている、ショーン・ペン演じる、元軍医のウィリアム・チェスター・マイナーでした。もちろん詳述はしませんが、このあとの展開と描かれた人間たちの苦悶、慟哭(どうこく)は見る者の胸を鷲掴みにして離しません。
マレーの妻の理知的な美しさと思慮深さ、マイナーに誤って夫を殺され貧しさにあえぐ女性の心の変容にも注目すべきです。看守マンシー役のエディ・マーサンのこれぞ名脇役という存在感も素晴らしく、そして歴史的にも正直者で名高いあの人物にも胸がすく思いをもらえました。メル・ギブソンとショーン・ペンの初共演作品というだけでも、これは見ておかねばと思うものではないですか。
『博士と狂人』
監督・脚本/P.B.シェムラン
出演/メル・ギブソン、ショーン・ペン、ナタリー・ドーマー
10月16日(金)、ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国公開
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Text:Takashi Matsuo Edit:Sayaka Ito