アートでたどる“型破り×日本”の系譜【case 1】岡本太郎×縄文の系譜
「日本文化」と聞いて「わび・さび」と答える大人たちへ告ぐ。良識ぶるのはそこまでだ! それは日本の一側面、あっと驚くこの奇抜さをなんとする。“呪力の美”を発見した岡本太郎、「奇想の系譜」の巨匠まで。目にも過激な“型破り”の美学、知らざあ証拠を見せやしょう…!!(『Numero TOKYO(ヌメロ・トウキョウ)』2022年12月号掲載)
※「わび・さび」も本来は予定調和と真逆の破格な思想だが、その話は別の機会に。
岡本太郎
1911年、東京都生まれ。父は漫画家の岡本一平、母は歌人・作家の岡本かの子。東京美術学校を経て29年に渡仏。パリ大学で哲学・社会学・民族学を学び、シュルレアリスムなど数々の芸術運動に参加。帰国後に兵役を経て創作活動を再開。自らの芸術理念の核となる「対極主義」を提唱、著書『今日の芸術』をはじめ精力的に文化・芸術論を展開する。絵画、家具、彫刻から、70年の日本万国博覧会(大阪万博)の象徴ともいえる高さ70メートルの『太陽の塔』に至るまで、その功績は極めて多岐にわたる。96年没。
【Case 1.】 岡本太郎×縄文の系譜
大回顧展が開催中の岡本太郎。縄文に魅せられ歴史を塗り替えた、その型破りな人生に迫る!
検証インタビュー① 岡本太郎の型破り伝説
岡本太郎は人生に効く!? その理由を美術史家・山下裕二が解説する。
過去最大規模の回顧展が開催されるなど、国民的人気を誇る岡本太郎。世代を超えて愛される作品や生きざまが、型破りな逸話とともに語られている。その伝説形成に大きな役割を果たした山下裕二に、あらためて“太郎の魅力”を語ってもらった。
Interview & Text : Hiroyasu Yamauchi
岡本太郎は“人生に効く”
──回顧展が開幕前から話題を呼ぶなど、衰えぬ“太郎人気”を実感しています。人は岡本太郎のどこにそれほど惹かれるのでしょうか。
「岡本太郎は、見た人すべての人生に直接“効く”んです。その作品は、ひと目見て『なんだこれは!』と驚かされる型破りなものばかり。言動も含めて、人をあっという間に感化してしまう強さがあります。僕も岡本太郎に人生を変えられた一人ですよ。旧来の価値観なんてクソ食らえだ、自分の目で見て自分の頭で考えろ、そういう太郎の教えを受けて、ならば自分は旧来の美術史を丸ごと書き換えてやる! というつもりでやってきましたから」
──岡本太郎という存在にハマった経緯は?
「振り返れば関わりは長くて深いですよ。最初に岡本太郎の名を知ったのは1970年のこと。世は大阪万博で盛り上がっていました。小学6年生だった僕も、大阪の親戚宅に泊まり込んで、1週間ぶっ続けで足を運んだものです。会場で、そびえ立つ『太陽の塔』に遭遇しました。真っ先に思ったのは、『わあ、怪獣みたい』ということ。岡本太郎という作者名が、脳内にはっきりインプットされました。
万博後、太郎はテレビに頻繁に出演するようになります。『芸術は爆発だ!』というマクセル・ビデオカセットのCMは有名でしょう? 他にもタモリが司会を務めた『今夜は最高!』に出てイジられたり。それで“ヘンなおじさん”のイメージがついて、アカデミックな美術界からは無視される状況が長く続きました。晩年はパーキンソン病を患い、だんだん露出も減って、96年1月7日に亡くなった。テレビの速報で『芸術家・岡本太郎死去』とテロップが出たのをよく覚えています。ニュースを知って動揺しました。というのもその少し前から、岡本太郎の文章をよく読むようになっていたから。
当時住んでいた豪徳寺の駅前の古本屋で、たまたま太郎の本を見つけて開くと、衝撃的な過激さだった。何しろそこには『法隆寺は焼けてけっこう。自分が法隆寺になればよい』『雪舟なんて芸術じゃない』などと書いてある。日本美術史を専攻する大学院生だった僕は、横っつらを叩かれたような気分になりました。ただ、亡くなった時点で太郎の本はほぼ絶版。彼の主張が人目に触れる機会はほとんどない状態だった。これじゃいかんと、僕はあらためて太郎と向き合うようになりました」
死後に始まる復活の呪力
──「太郎のリバイバルをせねば」という気持ちに駆り立てられたわけですね。
「彼の文章を読んで、すでに感化されていたのでしょうか、強い衝動を感じましたね。亡くなった年、平凡社のムック『別冊太陽』が「岡本家の人びと」という特集を組みます。僕が「『激しい伝統』のアジテーター」という文章を寄せると、あちこちの編集者の目に留まり、以降、芋づる式に太郎に関する執筆依頼が来るようになりました。
他にも太郎を語る人が出てきて再評価が進むのだけど、それを強力に推し進めたのは何といっても岡本敏子さんのリーダーシップ。彼女は長きにわたる太郎のパートナーですね。戸籍上は養子で、妻でもあり妹であり、有能な秘書だった。太郎の生前はさほど前面に出なかったけれど、亡くなったあと彼女は腕まくりしたんです。『さあ、これから私が太郎さんを復活させるわよ』と。
僕は99年、NHK『新日曜美術館』の岡本太郎特集に出演して『太陽の塔』ロケで敏子さんと会いました。以来、一緒にたくさんの本や、太郎の撮った写真を集めた写真集も出版したりしましたね。2005年に彼女が亡くなるまでの間、ずいぶん長い時間を共に過ごしました。やっぱり豪傑でね。飲みに行くと、肉を食べながら赤ワインをどんどん空にしたものです」
──深く関わるなかで、太郎のどんな作品に感銘を受けましたか。
「僕は岡本太郎という総体が好きなのだけど、作品でいえば初期のものがいいですね。『傷ましき腕』『森の掟』など。発表当初は酷評されたりもしたようですが。原色がぶつかり合う色彩は、それまでの油彩画のくすんだ感じとは対極的で『色音痴』などといわれたのです。
もちろん『太陽の塔』は別格です。僕の考えでは、あれは土偶のイメージが反映されていますね。00年に長野県で発掘された土偶『仮面の女神』に大変よく似ていませんか。面白いのは、これが太郎の死後に発掘されていること。もしも太郎がこの土偶を見ていたら、『けしからん! 縄文人は俺の真似をしている』と言ったに違いない(笑)」
“過激な美”縄文の発見者
──“縄文の美”を見いだしたのも岡本太郎だといわれていますね。
「そう、言説面での太郎の最大の功績は“縄文の発見”です。考古遺物としては知られていたものの、太郎以前にはあれを“美”として捉えた人などいませんでした。思えば縄文土器って、型破りの極地です。特に火焔型土器の複雑怪奇な造形は、世界中探しても他にありません。太郎は誰よりも早く縄文に着目し、そこに日本の支配的価値観たる『わび・さび』とは対極の呪術的な美意識を見いだして、広く世に問いました。最初の言及は52年『縄文土器論』でのことでした。
さらに太郎は54年、『今日の芸術』を刊行してこれがベストセラーとなります。『今日の芸術はうまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない』と言い切り、世間の常識と真逆を行く芸術思想『対極主義』を明確に打ち出しました。これほど真っすぐに生きて、つくり、ものを言うということを貫いた人は他にいない。没後四半世紀が過ぎましたが、太郎に感化される人は後を絶たないし、これからも途切れることはなさそう。それだけ型破りな魅力を持った存在ですよ」
「展覧会 岡本太郎」
未知に向かって果敢に挑み続けた岡本太郎の人生、その全貌を紹介する過去最大規模の回顧展が大阪に続いて東京へ。来年1-3月には愛知県美術館で開催予定。
会期/10月18日(火)〜12月28日(水)
会場/東京都美術館
住所/東京都台東区上野公園8-36
Tel/050-5541-8600(ハローダイヤル)
URL/https://taro2022.jp
日時指定予約制
※最新情報はサイトを参照のこと。
Edit : Keita Fukasawa