松尾貴史が選ぶ今月の映画『英雄の証明』
元看板職人のラヒム(アミル・ジャディディ)は借金を返せなかった罪で投獄されている服役囚。偶然手に入れた金貨を落とし主に返すが、そのささやかな善行が思いもよらない事態を招く……。『別離』『セールスマン』のアスガー・ファルハディ監督最新作で、カンヌ国際映画祭でグランプリ受賞作『英雄の証明』の見どころを松尾貴史が語る。(『Numero TOKYO(ヌメロ・トウキョウ)』2022年5月号掲載) 。
SNS社会に翻弄される人生の行方
偽善という言葉は、アナログの時代に比べて、SNSが発展した現代のほうが、よく目にするようになったと感じるのは私だけでしょうか。困っている人たちに、ある程度ゆとりのある人が、少しでも役立ててもらえるように寄付行為をするとか、募金を呼びかけるとか、すこぶる素敵なことだと思うのですが、世の中にはそういう「素敵なこと」に対して、嫉妬心を抱く人も少なからずいるようで、特に金銭的に恵まれた状況にある人や、有名芸能人が多額の寄付をするなどしたときには、なぜか「偽善者だ!」「売名行為はバレバレ」などと、浅ましく卑しい難癖をつける人が夥しくいることに、同じ人間として恥ずかしく思います。
なぜ、寄付なり慈善事業なりを行うと責められることになるのでしょうか。自分のできる範囲で、役に立ちたいと思うことがそんなに不健康なことなのでしょうか。その動機が、偽善だろうが売名目的だろうが、困っている人たちが救われるのであればいいではないですか。その行為に難癖をつけて、何になるというのでしょうか。への突っ張りどころか、救われる人も救えなくなる妨害行為に過ぎず、ただただみっともないの一言でしょう。
人の善意というものは、その先に何があろうとも、そのことで役に立つのであればいいではないですか。もちろん、「恵まれない子どもたちに支援を」と訴えて募金活動をして、そこから運営手数料と称して不当な暴利を私利私欲のために貪るという詐欺は許されるものではありませんが。
この『英雄の証明』では、良かれと思ってした善意の行動が、誤解や憶測、嫉妬、遺恨などによって歪められ、誤解を招いてしまうことの「想像に難くない」現象の数珠つなぎが描かれています。人にはもちろん、一方向からの観察では測れない人格や状況が多角的に見えるものですが、受け手の感覚でそれをよく解釈しよう、悪く解釈しようというバイアスがかかったときに、いかに極端な印象の振れ方をしてしまうものかを、明確に可視化してくれています。
刑務所に服役中の囚人が、制度上許される短期の休暇中にした「善行」をめぐって、公にする気もなかったのに、巡り合わせで明るみに出たかと思うと、その当然の行為がまやかしだったという濡れ衣を着せられ、ことは思わぬ方向に転がり始めるという、すこぶるリアルな話なのです。
劇中では、アナログな人間生活の世界観と、デジタルな情報拡散のせめぎ合いが効果的に描かれ、リアルで生理的な人間関係をSNSが掻き乱して悪意を顕在化させていく悲しさがどんどんと浮き彫りになっていきます。
主人公や、周囲の登場人物の、明確な理由のない行動の積み重ねが転がし続けるリアリティ。考えさせてくれることが多い作品です。
『英雄の証明』
監督・脚本・製作/アスガー・ファルハディ
出演/アミル・ジャディディ、モーセン・タナバンデ、サハル・ゴルデュースト、サリナ・ファルハディ
全国順次公開中
synca.jp/ahero/
©2021 Memento Production – Asghar Farhadi Production – ARTE France Cinéma
Text:Takashi Matsuo Edit:Sayaka Ito