グラフィックデザイナーが語ったロゴの秘密 | vol.1 仲條正義 | Numero TOKYO
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グラフィックデザイナーが語ったロゴの秘密 | vol.1 仲條正義

店の看板やポスター、商品、パッケージ......ちょっと見渡せばあちこちにロゴがあふれている。 ロゴは私たちにとってどんな存在なのだろう。どうやって作られているだろう。 日本を代表するグラフィックデザイナー 5人にロゴの裏側と制作秘話について話を聞いた。 vol.1 は資生堂のアートデレクションや企業、美術館などのロゴを手掛ける仲條正義。(『Numero TOKYO(ヌメロ・トウキョウ)』2021年10月号掲載)

「東京都現代美術館」1995

時代も常識も超越する無二無三のロゴデザイン

約40年にわたりアートディレクションを手がけた資生堂の企業文化誌『花椿』を筆頭に、あらゆる作品で数多のクリエイターに影響を与えてきた仲條正義。今なお若手の追随を許さず、グラフィックデザイン界のトップを走る仲條に聞く、ロゴの移り変わりとデザインの極意。

──そもそもロゴとは、どんな役割を担ったものと考えていますか。
「やっぱりグラフィックの核だと思うね。写真と組み合わせて使うにしても、写真をどうするか考えながらロゴも並行して考える。だからグラフィックの核になるんですよ」

──企業や美術館のロゴの場合は汎用性も求められるから、デザインに組み込むのも難しそうですよね。
「そんなこと、考えない(笑)」

──えっ!?出しゃばりすぎちゃいけないものだと思っていました。
「いやぁ、僕は出しゃばるほうです。クセのある人間だから、クセを出さなきゃ気が済まないんだろうね」

──1995年に東京都現代美術館のロゴを作られたとき「企画の新しさで見せるような時代になってきたと思ったから、ひとクセあるロゴにした」と話されていました。
「そうですね。それまでのロゴというのは(3つの菱形を組み合わせた)三菱のマークとか、典型的なシンボリックなものであって。シンボルであるよりは、もうちょっと活用できる、絵として働いてくれることを考えるようになりましたよね」

ブティック「ザ・ギンザ」1975

(左)「Tom’s Sandwich」1973(右)「松屋銀座」1989

──2021年の今、ロゴに求められるものもまた変わってきている?
「広告に写真を使うことが主体になってからは、いわゆるキャンペーンロゴというのが出てきて。今でも倍判のポスターにいっぱいありますよね。駅張りのポスターなんかは強烈な写真だけでは差別化できないから、言葉が大事なんですよ。その用途がはっきりした、メッセージとしての言葉を生かすための形ですかね。その形としての強さを求められるだろうけど、やっぱりロゴには愛嬌がないと。メッセージだけってなると、そっけなかったりするから」

──確かに。ただ強いだけだと、なんか一方的に感じてしまう。
「そうそう。見ろ!ってだけじゃない、共感みたいなものがやっぱり大事になるんでしょうね」

──仲條さんのロゴはスッと目に入ってくるのに、見れば見るほど面白さを発見できる造形で。見飽きない形にすることも意識されている?
「嫌われないってことだろうね。それぐらいの配慮がないとダメでしょうけど、そうじゃなかったらちょっと強めのほうがいいんですよ。だいたい僕はね『作ってもらったものを、この段階で選びます』という仕事を受けないの。『俺に任せるなら、やります』って」

──オリンピックや万博ロゴのコンペには通ったことがないとも以前に言っていましたよね。
「コンペだったものには一応、全部出していますけど通ったためしがない。ああいうロゴは、やっぱり深い英知が選ぶんでしょうね。僕はほら、ちょっと特殊な遊びでやっているところがあるから。知らないところとの仕事はほとんどなくて、みんな知り合いから。だから資生堂関係の仕事ばっかりになっちゃうわけ」

──知らない人や企業から依頼があっても断ってしまう?
「いや、そもそも来ないですよ。『無理に頼んでも、今的じゃないものになる』と思われているのかどうかはわかりませんけど」

──長年アートディレクションを手がけられた『花椿』では、誌名ロゴだけでなく、誌面の中でもさまざまなロゴを作られていましたね。
「大学卒業後に資生堂の宣伝部に入って、大衆向けの化粧品の広告を作っていたことがあるんだけど、僕は広告ができなくてね。『どうも広告はダメだ』と資生堂を辞めて、フリーで仕事をしていたんです。資生堂には雑誌部みたいな部署があるんですが、編集長になった山田勝巳さんが、資生堂を辞めていた僕に『ちょっとカットイラストを描いて』『タイトル文字を作って』みたいに声をかけてくれて。だからエディトリアルに付随したイラストが、もともとの始まりだったんですよ」

(左)「花椿」577号 1998年7月(右)「花椿」600号 2000年6月

(左)「花椿」391号 1983年1月(右)「花 椿」500号 1992年2月

──辞めた会社から依頼が来ることって、あまりないですよね。
「ないです、ないです。たいていは『二度と反逆者なんかに仕事を回さない』ってなる。その後、山田さんは異動して出世したけど、僕だけ『花椿』に残ったんです」

──デザイナーの名前は仲條さんしかクレジットされていませんが、一人で全部デザインされていた?
「そうですね、『文句言うな!』って僕が全部やっちゃうから(笑)。今は違うでしょうけど、僕が資生堂にいた頃の『花椿』は資生堂の中では傍流だったし、誰もやりたがらなかった。他の課から人が異動して来ても専門家じゃないし、『ちょっと”花椿”やってみろ』と言われて来た人だから全然何も知らなくて」

「資生堂パーラー銀 座本店」ショップ限定商品パッケージ 2019

(左)「資生堂パーラー銀 座本店」ショップ限定商品パッケージ 2011(右)「資生堂パーラー」パッケージ 1990

──今でこそ資生堂の企業文化誌ですが、昔は会報誌でしたからね。『花椿』のロゴも40年の中で、けっこう変化していきましたよね?
「うん、ずいぶん書体が変わっています。山名文夫さんが作った元となるロゴは細いんだけど、僕は『どうも細くて気に入らない』って。資生堂には山名さんや小村雪岱さんが手がけたデザインの伝統があって、資生堂のデザイナーでない僕がロゴを大きく変えることはできない。だから宣伝部のデザイナーに何種類か作ってもらったものの中から1種類を選んで、ちょっと太めにしたんです。でもね、やっぱり伝統って大事だと思うんですよ。僕は、デザインは伝統だと思う。モードというのは変わるものだけじゃなくて、変わらないもの、伝統として美しいもの……それこそクリスチャンディオールとかシャネルとかね。感覚が変わっていっても、結局パリのモードや、核になるものは変わらない。それが変化してアヴァンギャルドに見せたりするところもあるけど、やっぱり基本になるものが変わらない。保守的ですよね、パリは。でも、それがモードだと僕は思う」

──ロゴのデザインは今後、どう変化していくと思いますか。動くロゴが求められたりもしそうですが。
「それは、ありますよね。菊地敦己くんや、中村至男くんとかがやっていたりする。あれは時代が変わったなと感じますけどね」

──マークとしてのロゴも再び求められていく予感も少しします。
「でもシールとかに使われているくらいで、意外と活躍してないよね?キャンペーンロゴはいっぱいできて、変化していくだろうね。変わっていくものを作るほうが楽だし。でも、基本となるものは変わらないだろうね。モードと同じで変わらないものは、やっぱり変わらないから」

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Photo:Ayako Masunaga Interview & Text:Miki Hayashi Edit:Saki Shibata Sayaka Ito

Profile

仲條正義Masayoshi Nakajo 1933年、東京都生まれ。資生堂宣伝部、デスカを経て61年に仲條デザイン事務所設立。主な仕事に資生堂『花椿』誌、ザ・ギンザ/タクティクスデザイン、松屋銀座、複合文化施設スパイラル、資生堂パーラーのアートディレクション、細見美術館のCI計画、NHKEテレ『にほんごであそぼ』のカルタイラストなど。JAGDA亀倉雄策賞、紫綬褒章、旭日小綬章ほか受賞多数。2021年、最新作品集となる『仲條』(ADP)を出版。

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