迷うための旅へ―モロッコが世界に誇るホテル「ラ・マムーニア」を訪ねて | Numero TOKYO
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迷うための旅へ―モロッコが世界に誇るホテル「ラ・マムーニア」を訪ねて

常態化したコロナ禍で読書の時間が増える一方、昭和の重要な語り部たちが一人また一人と他界し、別の意味でもいよいよ大きな時代の変わり目を感じている。そんななか、やはり昨年末に永遠の眠りについた画家の安藤光雅さんが遺した名作「旅の絵本」に、次のようなあとがきの一節を見つけた。

「道はどこまでもつづいておりました。丘を越え、川を渡り、果てもない緑の牧草地に沿っておりました。(中略)そのような、市から市、国から国へ、迷いながら、はるばる旅をしました。あまり困ったときなどは、旅に出たことを後悔するほどでありました。しかし、人間は迷ったとき必ず何かを見つけることができるものです。私は、見聞を広めるためではなく、迷うために旅に出たのでした。(続く)」 未知のウイルスの登場で移動がままならなくなって久しい日常に対して旅の本質を問いかけるその言葉は、同時に、私たちが一時的に喪失してしまった体験の大きさを教えてくれるかのようだ。 翻って昨年11月、新型コロナウイルスの感染者数が下火になった一瞬の隙を突くようなタイミングで、モロッコへ旅する機会を得た。いま振り返っても嘘のような本当の話だが、2018年に雑誌『Condé Nast Traveler』によるReader’s Choice Awardsで“The Best Hotel in the World”にも選ばれたマラケシュのホテル「LA MAMOUNIA(ラ・マムーニア)」が、5年以上前から準備していた一大リノベーションを敢行。半年間の休業を経て10月に営業を再開し、スタッフの雇用を守るためビジネストラベラー枠として一部のツーリストを受け入れ始めたことから、ゲストの属性を占める複数国のメディアが現地に招かれたというのが、渡航の理由である。 モロッコ政府が全ての入国者に義務付けている鼻ぬぐいによるPCR検査の陰性証明を手に、機内に新たにお目見えしていた衛生キットを味方に、直前に二度目のロックダウンに入ってしまったフランス(パリ)を諦めドバイでのトランジットを経て、カサブランカの空港までは丸1日。

そこから車でマラケシュまでさらに3時間。ロシアの上空を飛ぶ北航路ではなく、地球のもっとも膨らんだお腹の部分をほぼ横移動することで「地球は青かった」もとい「地球は大きかった」ことを実感した末、たどり着いたラ・マムーニア。

ホテルに足を踏み入れてまず出迎えられるのは、壁面の木彫りや幾何学模様のタイル、細密な模様を浮かび上がらせる金属細工の照明や手織りのテキスタイルなど、イスラム装飾をベースにした最高峰の建築工芸が集約した空間デザインであり、部屋に通されテラスに出ると視界に飛び込んでくるのは、目の前の色彩と生命力豊かな庭園、そしてアトラス山脈の稜線と彼方まで続くアフリカの大地だ。

ひしめきあう高層ビルの隙間に小さな空と緑が覗くばかりの東京とは一変した圧倒的な環境は、それだけで、私たちがいかに狭い視野でサバイブしようとしているかを諭してくれるようでもあるが、それもそのはず。ラ・マムーニアはシディ・モハメド・ベン・アブダラ王が18世紀に息子たちの婚姻のお祝いとして邸宅と共に贈った複数の庭園のうち、約3万平方メートルもの広さを誇る最も有名な一つに、1923年、二人のモロッコ人建築家によって僅か50室の格調あるホテルとして建設された。その後、5度のリノベーションで現在の210室まで拡張され、「ラ・マムーニアは世界でもっとも愛すべき場所」と語ったウィンストン・チャーチル、マラケシュを終の住処としたイヴ・サンローランらをはじめトップクラスのセレブリティが定宿に。他にもロイヤルファミリーやエンターティナーとの結び付きも深く、ヒッチコックは『知りすぎていた男』(1955年)をここで撮影し、ローリング・ストーンズやエルトン・ジョン、2010年から始まったマラケシュ国際映画祭ではメインスポンサーとして名だたる映画人を受け入れるなど、その手のエピソードに枚挙に暇がない。

世界を股にかけるジャン-ジョルジュとピエール・エルメを起用

なお、今回6度目となったリノベーションでは、我々のメディアツアーに合わせてラ・マムーニア入りし記者会見まで行った飲食界の二大スターを迎え、レストランを刷新。いずれもフォーマルなスタイルが売りだったフレンチとイタリアンのレストランは、東京・六本木なども含め世界に40店舗以上のあらゆるジャンルの店を展開するミシュランスター・シェフのジャン-ジョルジュ・ヴォンゲリスティンが、東南アジア料理にフォーカスしたアジアンダイニング「L’ASIATIQUE」と、よりカジュアルなトラットリア「L’ITALIAN」に生まれ変わらせた。背景にはアジア料理を日常的に楽しみ、いわゆるグランメゾンのような格式ばったレストランを敬遠する新たなトラベラー世代の台頭があるという。

さらに “スイーツ界のピカソ”とも称され、やはり世界に50店舗以上の店を持つご存じピエール・エルメが、初めてロブスターロールやグルメバーガーなどソルティ・メニューを提供するサロン・ド・テも登場。ゆえに塩の結晶を象ったシャンデリアが目印のどこか神聖な印象を受ける一角は、挑戦をおそれないエルメへのリスペクトをデザインした空間でもある。

フランス北東部アルザス出身である同郷の二人は、上で触れた展開店舗の数からも明らかな通り、誰よりも旅から旅をしてきた開拓者であると言っていいだろう。ジャン-ジョルジュに関しては、故郷の名店「L’AUBERGE DE L’LL」などで修行後、バンコクのオリエンタルホテル、シンガポールと香港のマンダリンホテルでも腕を磨いたベースもあり、今回オープンしたアジアンダイニング「L’ASIATIQUE」のディナーでテーブルに運ばれてきたシャリを揚げたサーモンの握り、黒トリュフのソースがかかった焦しフォアグラを包んだ餃子など、アジアを代表する料理を独創的に解釈したフレンチもお手のものだった。

一方でエルメと旅の親和性に関しては、いささか角度が変わるが、東京・丸の内仲通りにある「Made in ピエール・エルメ丸の内」のコンセプトを見ても十分に察することができる。彼が日本を何度となく旅する中で見つけた生産者とともに作り上げた米や醤油や缶詰をはじめ、オリジナルの食料品が並ぶ店内にはデリも併設。それこそオリジナルブレンドの米を使用した日替わりのどんぶりを詰め合わせた弁当などの軽食も提供されていて、代名詞のマカロンだけじゃないエルメの我が国への造詣の深さを感じさせる。

ちなみにラ・マムーニアでは今回オープンしたサロン・ド・テに先駆けて2018年から、ホテルのスイーツメニューの監修をエルメに一任し、パティスリー・ブティックも展開している。

なかでも新作のチョコレートバーは、エルメ曰く「モロッコならではの新しいメニューを開発するため、旧市街のジャマ・エル・フナ広場(ご存じ、威勢の良い屋台が軒を連ね、その先の迷路のような路地も含め、マラケシュを紹介するVTRなどでは必ず取り上げられる名所)へ食材やフレーバーのリサーチに繰り出したとき、目に留まった足元の石畳のパターンから着想を得た」とのこと。今回の滞在中も早い朝から自身のサロン・ド・テのテーブルに一人腰掛け黙々とパソコンに向き合うエルメの姿に、開拓者であり続けるための孤高を垣間見た。

さらにこのリニューアルでは、ほかにもホテルの常連だったチャーチルの名を冠したバー「Le Churchill」が、列車の食堂車を彷彿とさせる緑色のライトが印象的なラウンドテーブルのもと20席にスケールダウンされ、世界的に注目が集まるウィスキーをはじめとした高級蒸留酒にフォーカス。ショウケースには多くがミシュランスターの店に卸されているというパリ最古のキャビアメゾン「Kaviari」がラ・マムーニアのために開発したオシェトラキャビアもストックされ、面積を縮小した代わりにそうしたドリンクやフードを持ち込んで映画鑑賞などができるプライベートなシネマルームが併設された。

そしてこのバーをはじめ、前述の2つのレストラン、サロン・ド ・テと、今回リニューアルした全ての空間をモダンにアップデートしたのは、パリを拠点とするデザイナーのパトリック・ジュアンと建築家のサンジ・マンクによるユニット「Jouin Manku」。パリのプラザ・アテネのメインダイニングを筆頭にあのアラン・デュカスが世界各地に展開するレストラン、やはり各都市のヴァン クリーフ&アーペルのブティックなどの仕事でも知られる二人とは、ラ・マムーニアのプールサイドに彼らがモロッコの職人たちと現地の素材を活用して建てたランタンを象ったガゼボで、インタビューという名の雑談の機会も。

パトリックが「今まではパリでマスクをしている日本人を見ると『どうしてそこまで?』と思っていたけど、今回のコロナで、それがリスペクトに変わったよ」と切り出す一方、サンジは成長市場にあるアジアのいくつかの国で進行しているまだ公になっていないプロジェクトについて語ってもくれて、国としてすっかり老いてしまった日本にはないスケールに焦燥感も覚える話でもあったが、それもまた旅に出たからこその学びとポジティブに捉えたい。

モロッコを愛してやまない二人の女性との出会い

そんな中で滞在中の一つのクライマックスとなったのが、オレンジの木の匂いに包まれた自慢の庭園で各国メディアが一堂に会したピクニックである。モロッコを訪れた人々やクライアントのためにオーダーメイドのウェディングやパーティ、ときに旅そのものも企画する「BOUTIQUE SOUK」というホスピタリティ・カンパニーが創り上げた世界は、ご覧の通り、多くの旅人がモロッコに期待する異国情緒をマジカルかつファッショナブルに表現したものだった。

その場に居合わせたファウンダーのRosena Charmoyに感激を伝えつつ、編集者の性(さが)で「現代アートでもファッションでも音楽でもいいのだけれど、モロッコでチェックしておいた方がいいアーティストはいる?」と尋ねてみたところ、その場でインスタグラムのアカウント交換へ。彼女はすぐさまDM で「LRNCE」というライフスタイルブランド、オリジナルのファブリックからデザインするファッションブランド「NORYA AYRON」、モロッコ・ラグのアーティスト「SAUFIANE ZARIB」、「MARRAKSHI LIFE」という手織りのテキスタイルを使ったアトリエブランドのリンクを送ってくれた。Rosenaからは日本に帰国後も「We just launched an e-SOUK selling our table designs!」というECサイト開設を知らせるDMが届いたりもして、クリエイティブなモロッコの仲間たちからインスピレーションを積み重ねた上でデザインされた商品は、タッセルなどのインテリアアイテムに目がない類のNumero読者には、ことさらキャッチーなはず。Check it out!

そして、そんな思わぬ出会いの中にあってここで特に記しておきたいと思うのが、「アトラス山脈に住んでいて、我が家の1階には村民との共有財産である牛を飼っているのよ」とあまりにユニークな挨拶を名刺代わりに近づいてきてくれたイギリス人ジャーナリストのAlice Morrisonという女性について。そのインスタグラムおよびウェブサイトによると、肩書は“Adventurer and Explorer”ともあり、“Indiana Jones for girls”を自称し、幾つかの冒険記を出版している Authorでもあるらしい。モロッコ在住のメディアとして今回のイベントに一人で参加していた彼女があるランチで私たちのテーブルに「ご一緒させてもらってもいい?」と飛び入ってきたのがきっかけで交流を持ったのだが、その人生は聞けば聞くほど、衝撃的で冒険的!

エディンバラで生まれてすぐに両親とともにアフリカに渡り、8歳までウガンダの奥地と、ときに月明かりの山脈の麓を遊び場に育ち、11歳でガーナへ。思春期を迎える頃にスコットランドに戻ると、大学ではアラビア語とトルコ語を取得し、卒業後はカイロで英語を教え、休日になるとヒッチハイクの旅などを愛好するようになった。さらにロンドンに移りBBCニュースチャンネルの数少ない女性編集者として活躍すると、今度はマンチェスターでspanet.comのコンテンツ制作の監督業務を経て、その間もキリマンジャロやアンデスでのアイスクライミングといった果敢なアドベンチャーに挑戦。最終的にはイギリス北西部のクリエイティブ産業の成長を促す公共サービスのCEOとして10年余り心血を注ぎ成功を収めるものの、イギリスの政権交代により別会社に統合されたことを機にいよいよ自身を解放し、カイロからケープタウンまで世界で最も長距離の自転車レースで知られるツール・ド・アフリカ、ランナーが衣食住全ての備品を背負って走る地球上で最も過酷なサハラマラソンなどに参加。ついに2014年、砂と太陽の下でのトレーニングを目的に、アトラス山脈の村に引っ越したというツワモノだ。

その後、現在に至るまで彼女が積み重ねてきた「世界初」も含まれる冒険譚はとても語り尽くせないものがあり、ぜひとも彼女がサイトに自ら寄せた文章、良質なドキュメンタリーでもあるポッドキャストやYouTubeチャンネルもチェックして欲しいのだが、Aliceは冒険の虫に刺されがちな他者にも敏感な女性で、そのインスタグラムにたびたび登場するラクダに一瞬でも興味を示した私を見逃すことなく、何度か「アトラス山脈の我が家においで。そうすればラクダに乗れるわよ!」とウィンクをしながら、ホテルから誘い出そうとしてくれた。でも、そこはかなしいかな、折り目正しき日本人。ホテルが我々メディア向けにお膳立てしてくれたプログラムを冒す勇気があるはずもなく、今回ばかりは大きな一歩を踏み出すことなくしてマラケシュを後にすることに。冒頭の安藤光雅さんの言葉に倣うなら、そこには見聞を広めるためではない、「迷うための旅」が間違いなく待っていたはずだ。

主語をラ・マムーニアに戻そう。

そのホテルとしての確固たる名声は、ここまで語ってきたモロッコのモニュメントとしてのヒストリーはもちろん、『Condé Nast Traveler』によるReader’s Choice Awardsという客観的な評価、さらに今回のリノベーションというコロナにもめげることのない一手に至るまで、疑いようがない。同時にそこには、単なる富裕層だけではなく好奇心もまた豊かなゲストがやってくるのが必然であり、デジタルを通して互いが簡単に繋がれる時代でも、リアルな交流にどこかで運命的なものを見出そうとする人々にふさわしい姿勢を貫いてくれることを、今回の旅への感謝と共に願いたい。

ちなみにAliceは自身のサイトでこんなことを綴ってもいる。

「私の冒険は単に物理的な偉業を成し遂げたいわけではないんです。私たちは世界が多くの点で危機に瀕している時代に生きています。私は気候や社会の変化に伴って地球に何が起こっているのかを目撃し、それが私たちを引き離すものではなく、結びつける物語として伝えたい」

コロナですっかり縮こまった日常にサヨナラができた後の私たちの旅は、はたして、どこに向かうのだろう。願わくば、思わぬ出会いをキャッチすることから始まる旅にどっぷりと迷い込み、世界から地球へと眼差しを新たにした次時代の冒険者へと、脱皮してみたいものだ。

ラ・マムーニアから眺めた大地でいつまでも沈むことのなかった太陽に誓って。

LA MAMOUNIA

https://www.mamounia.com/en/

Photos & Text:Yuka Okada

Profile

旅した人: 岡田 有加Yuka Okada 編集者・プロデューサー。81 Inc.主宰。ジャンルを問わずタイムレスなアーティスト(人間)を伝えることを軸とし、紙雑誌の企画編集を故郷に、これまでにない書籍や写真集、現在は2017年から編集長を務める『GINZA SIX magazine』をはじめ、デジタルも含めた数々のメディアやプロジェクトのプロデュースを担う。ライフワークの一つである旅にまつわるコラムの執筆も少なくない。
https://81inc.co.jp

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