松尾貴史が選ぶ今月の映画 『僕たちは希望という名の列車に乗った』
1956年の東ドイツで、無意識のうちに政治的タブーを犯してしまった高校生たちが、仲間との友情や恋を育みながら、人間として正しきことは何かをひたむきに模索していく。映画 『僕たちは希望という名の列車に乗った』の見どころを松尾貴史が語る。(「ヌメロ・トウキョウ」2019年6月号掲載)
「自分で考えて行動する」こと
その昔、テネシー・ウィリアムズの戯曲でのちに映画化もされた『欲望という名の電車』という名作がありましたが、どこかそれを思わせるタイトルです。そちらのほうはニューオリンズに実在した電車(デザイア・ストリートを走っていた)の表示に引っ掛けてのタイトルですが、本作は文字通り希望に向かう列車に乗るであろうことを思わせる題名です。
敗戦後の東ドイツの高校生たちが、まだベルリンの壁が建設される前、西ドイツの戦死者慰霊墓地を訪れることを口実にして大人の遊興を垣間見ていた時に、映画館で表題作がかかる前のニュース映画を見て社会情勢を知ることになり、新聞やラジオ、噂などのさまざまな情報に多感に反応し、鬱屈したエネルギーが若さゆえの行動に走らせてしまう物語です。
物語といいましたが、実際に起きた事件をもとに作られています。戦中戦後を問わず、情報は錯綜して、国民、市民は翻弄されます。いつの時代でも変わらないもので、戦争というものは当事者たちに「嘘も方便」という言い訳を、大々的に与えてしまうものなのです。
今の日本は戦争状態でこそありませんが、「誰か」の都合の良いように、巨大メディアから粉飾、印象操作、忖度などがまぶされたフェイクニュースがあふれています。どの立場から情報が発信されているか。そこに事実でないことが混ぜ込まれていても、それは双方が「正義のためにやっている」と胸を張るものだから始末に負えません。
暴力、敵対、分断、差別などが当たり前の不正直な社会は、必ず腐ります。権力者の対抗馬が「正直・公正」を掲げるような異常な状態である日本は、当時のドイツを1ミリも笑うことなどできないのです。
若い学生たちは、自分たちの行動を、何か意見が分かれたらすぐに多数決という安易な解決策に飛びつきますが、これは我が国の国会の、強行採決と何ら変わりませんが、どうにもそれが彼らには民主的だと思われているようです。そして、そのことで騒動が大きくなったときに、犯人探しの尋問では、白状されるために必ず調査官が家族の利害に絡むことで釣ったり脅したりするという手法が徹底しています。
もちろん、ここで彼らは名誉な呼び名を与えられます。「君たちは国家の敵だ。自分たちで考えて行動する」という、多数派や権威に流される小市民たちへの痛烈な批評が効いています。
演出も、いわゆる映画的なあざとさは最小限であって、観客はすこぶる大人の扱いを受けることができます。そして、高校生たちを演じる若い役者たちの演技もまた、素晴らしいでのす。
『僕たちは希望という名の列車に乗った』
監督/ラース・クラウメ
出演/レオナルド・シャイヒャー、トム・グラメンツ、ヨナス・ダスラー、ロナルト・ツェアフェルト
2019年5月17日(金)よりBunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町にて公開
URL/bokutachi-kibou-movie.com
©Studiocanal GmbH Julia Terjung
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Text: Takashi Matsuo Edit:Sayaka Ito