ファッショントーク「少女性にみる新時代のパンクとは?」
少女の中に存在する危うさや毒をはらんだような無垢なニュアンスが目立った2018年春夏のランウェイ。国内外でコレクションを見続けている、栗野宏文とマドモアゼル・ユリアの二人によるファッション対談!「なぜ今“少女性”なのか?」を語り合う。(「ヌメロ・トウキョウ」2018年6月号掲載)
──2018年春夏シーズンは、少女性やイノセントなムードを感じるブランドが多かった。ただ単にガーリーや清楚なイメージというだけではなく、狂気や突出した毒みたいなものが含まれている。この流れについてどう思いますか?
栗野宏文(以下栗野)「そこにはいくつか原因があると思います。まず社会の流れとして暴力事件や社会的不公平が増え、政治も酷い状況……とネガティブなことが多く閉塞感がある。でも、かつての“パンク”のような形での抵抗では通用しないのが現在です。80~90年代のロリータや原宿ファッションは、社会から「大人になりたくない人たち」という捉え方をされていた。けれど現在は「純粋にそれが好きで、この格好をしている。自分は自分」という意思表現としても理解されている。これは80年代当時とは大きな違いだと思う。ファッションや外見だけなら子どものままに見えるかもしれないし、子どものままでいるかのようなアイコンが散りばめられているかもしれないが、それはいわば“ソフトな鎧”かも。ソフトなほど突き崩せない…のでは?」
Courtesy of Gucci by Dan Lecca
GUCCI
毎シーズン業界の話題をさらう遊び心のあるアレッサンドロ・ミケーレのクリエイション。
イタリアから“モテ”が消える!?
──モードの世界にまで少女性が入ってきているのは、社会的背景が関係しているから?
栗野「そうでしょうね。例えば、かつてイタリアにおいてのファッションとは、モテるための道具だった。それが、グッチのアレッサンドロ・ミケーレ以降はオタク性が評価されている。僕は業界歴年超になりますが、イタリアファッションが“モテなくても構わない”というムードになったのは初めてだと思う。それまでは、どんなブランドにもエロスがあった。ミケーレにはエロスのエの字もない。これは本当に凄い変化でありドラスティック。彼がグッチのクリエイティブ・ディレクターに就任した以降はエロ的なノリをやっていることがダサくなったのでは?」
PRADA Courtesy of PRADA
マドモアゼル・ユリア(以下ユリア)「確かに、自分の中にあるオタク的な要素を外に出すことがカッコいいという流れになってきたのは感じますね。オタクの女子たちは潜在的にフリル、パフスリーブのシャツ、白ソックスも好きな可能性が高い。今はストリートテイストの服が流行っているので、私自身はそこに少女っぽいものをミックスさせてデザインしたりしています。
私がデザインした「グローイングペインズ」の2018年春夏コレクションでは、大正時代のモガ(モダンガール)をテーマにしました。モガの人たちは生き方がとにかくパンク。自分を表現することに命を懸けていたんです。それは今の自分や周りの友達の考え方にすごく通じると思い、このテーマに決めました。当時の彼女たちの奇抜な格好は批判にさらされたけれど、それでも自分の好きなことをして生きたいというマインドを強く持っていた。私も誰かのために服を着るわけではない」
GROWING PAINS
マドモアゼル・ユリアが作る大正浪漫を生き抜く強い女性像
「コレクションテーマを考えるとき、背景やストーリーを作るのがすごく好き。私が当時生きていたら絶対にモガになっていた。2018年の春夏シーズンは個性と強い意志を持った女性を表現しました」
栗野「“こういう格好はモテない”っていう考えも、年代までの話かもしれないですね。今は恋人や彼氏でも、パートナーという言葉がしっくりくる。奧さんでもガールフレンドでも同性でも、ロボットでも、自分と何かをシェアできる相手であればOK。モテは関係なくなっているのかも」
ユリア「私が作る服もまさにモテは関係なくて、作るときにモテを考えたこと自体あまりないですね。レースをビニールでコーティングしたり、ディテールをコルセットにしたりと、必ずどこかにパンキッシュなメッセージを込めるようにしています。制約を感じる制服に憧れていたこともあり、セーラーディテールのルックも作りました」
栗野「丸襟や白ソックスなど制服は制約の集大成ですよね。70年代の映画『ピクニック at ハンギング・ロック』(ピーター・ウィアー監督)が公開された頃、森、フリルみたいな少女ものブームがあった。あのときは少女のままでいたいがために、主人公が死んじゃったりしていたが、今は誰も死なないで良いねって(笑)」
ユリア「コレクションのために大正時代を調べたとき、私も衝撃を受けました。結婚を反対されたら心中してしてしまうなど、当時の人たちの生き様は興味深いですよね。自分を表現することに命をかけるのは、現代ではなかなかできないこと。今際何でもできる時代なので、規制されている感じがある少女趣味的なものを、逆に着たいと感じるのかな」
miu miu Courtesy of MIU MIU
──SNSの流れもファッションに影響している?
栗野「90年代と今との最大の違いはSNSでしょうね。何か発信したくてもできなかったのが、今は誰でもすぐできる。この差は劇的変化だと思います。それでもファッションはすごくナイーブなものだから、ソーシャルネットワークの時代とまだ上手く馴染めていないところもあるかと。ファッション自体はで頻繁に取り上げられていても、作り手の頭はまだそこまでに至っていないように思える。
危険と隣り合わせだということはもちろん考慮しつつ、その“面白くなり方”をきっちりと見届けたいですよね。英語で“タンジブル”という手触り感を意味する言葉があリますが、ネット配信されているものはタンジブルじゃない。レコードだと盤に手が触れて、針が落ちる。このタンジブルの在り方を意識して、どう付き合っていくかのバランスを考えたい」
キーワードは「タンジブル(手触り感)」
ユリア「SNSで配信されているものを見て、それを経験したかの様な感覚に陥っている人が多いと思う。でも実際には経験していないので感動も薄い。ファッションの捉え方もすごく変わってきていますよね」
栗野「ユリアさんが言うように今はなんでも疑似体験ができてしまうので、服を買わなくても買った気になってしまう。でも一回洗った後のほうが生地の手触りが気持ち良かったり、すこし汚れたほうがスニーカーに味が出てきたりといった、タンジブルな世界はなくならないと思う。僕はそこについては人間の力を信じています」
Comme des Garçons
──自己表現においてのタンジブルへの立ち戻りやパンクな少女性のムードを追うと、たどり着くのは川久保玲さん?
栗野「コム デ ギャルソンが掲げた先シーズンのテーマは“マルチディメンショナル・グラフィティ”。すごく前衛的だが、ある意味極めて王道なアイコン集積。そして今シーズンはレイヤードを多用していて、やっていることはどんどん複雑になっているのに、彼女の頭の中は逆にどんどん整理されているように思える。自分の中にある、どうしても消し去れないものを惜しみなく表現しているんじゃないかと。彼女は近年アウトサイダーアートにずっと魅かれているようですが、最新の秋冬コレクションではアウトサイダーアート自体になった様に感じました。
前回のギャルソンのショーの後に川久保さんが『所詮パンクは様式になってしまった。パンク=反抗とは、もう受け取られない。それよりも“私は変わらない。それでなぜ悪い”という方が反抗になる』と語った記事を読みました。貴族もいない、階級社会もない、厳格なモラルもない。それでも白襟やレース、フリルを着るというのはノスタルジーではなく、もはや根源的パンク性。世の中のことを気にしていないという意思表示になっているとも思える。
UNDERCOVER
Noir kei Ninomiya
栗野宏文が注目する3ブランドはすべて日本勢!
今は80〜90年代まであった「性の表現としての服」という概念は今や存在せず、代わる新概念は日本にある。それがコムデギャルソンでは? 僕が秋冬のパリで気になったブランドは、『コム デ ギャルソン』『ノワール ケイ ニノミヤ』『アンダーカバー』とすべて日本のもの。『ノワール ケイ ニノミヤ』はギャルソンから出たチームの中では新しいフェミニン性を感じるし、実際に六本木店でもよく売れています。社会背景との結びつきが強いファッションにおいて“すべての答えは日本にある”僕はそう思います」
「Noir Kei Ninomiya」二宮啓とフラワーアーティスト東信の対談を読む
Portrait:Takahiro Idenoshita Edit:Yuko Aoki