勝手にデパート文化論[前編]/菊地成孔×伊藤俊治 対談連載 vol.7
失われていくデパート的お洒落人 K「今野雄二さんが亡くなったというのも衝撃でしたね」 I「若い人はあまり知らないですよね。オシャレな映画評論家なんだけどね。グラム・ロックのロキシー・ミュージックとかを紹介して」 K「今年、ロキシー・ミュージックがフジロックに来て、演奏した翌日ですよ亡くなったの。だからもう象徴的。僕もフジロックに出てたんですけど、帰りの車の中で、そういえばロキシー出てたよって話題になって、そういえば今野雄二ってどうしてんだろうね、こんなぬかるみの中、まさか見に来てないよねコンちゃんが。いや、コンちゃんならロキシーはマストでしょう(笑)とか言ってた矢先でしたよね。今野さんは加藤和彦作曲の『気分を出してもう一度』(1977年)を立木リサとデュエットしてましたよね。結局、確か同世代ですよ。加藤和彦、今野雄二、ブライアン・フェリー、タモリあたりが」 I「彼はもともとマガジンハウス(当時平凡出版)の編集者で『anan』やってましたよね。それで映画評論家になって。いろんなテレビに出てた」 K「『11PM』に出てた、映画やら海外のカルチャーを紹介する人ってことで。まあ(大橋)巨泉とキンキン(愛川欽也)にコンちゃんコンちゃんて呼ばれて」 I「加藤さんも自殺……。60代前半で団塊の世代だよね」 K「だからこの世代的に微妙なんだけど、そうすると、例えば、youtubeなんかで、『気分を出してもう一度』へのアクセスが増える。それは日本のAORってもんが、77、8年に根付くか根付かないかっていうときのタイミングのすごく芳醇なキャンティ文化の遊び人の感じがね。そのAORが日本に根付くのかなって思ったときに、根付かなかった。カルチャーって、来そう、来そうっていってたのが何かによって吹き飛ばされるっていうような、一種のなんか陣取りゲームみたいなのがあって。で、音楽の場合は、AORが根付くのかっていう時期に、YMOが出てきて、AORのあり方も、山下達郎さんみたいなサーフとシティを戯画化したみたいな強いものになってゆく。ブログにも書きましたけど、『気分を出してもう一度』のジャケットって、今野雄二さんがタキシード着て、秋川リサさんはナイトドレス着て、後ろがフルバックで、日本語で縦書きで「気分を出してもう一度」ってなってるわけ。これはキッチュでもなんでもないし、ラグジュアリーとしては本物なわけです。なので定着しなかった。これをお茶の間型の汎用に作り直したのがタモリの『今夜は最高』だと思うわけ。やはり同じタキシードを着て、「気分を出してもう一度」ってコピーと「今夜は最高」って一文字も被っていないのに関わらず(笑)イメージはほとんど同根っていうか。 『今夜は最高』ってのは84年に始まる番組なんだけど、だからつまり、最先端の遊び人がジャズ抜きで、つまりフォークやシャンソンという音楽的教養でトライし、定着せずに消えたことを、後にジャズメンがお茶の間にがっつり根付かせる。という、まるでテレビ創成期みたいな構図ですが、日本の本物のラグジュアリー、本物のリュクスを、汎用のコピーリュクスが駆逐してくっていう流れがね。しかしYoutubeはなんて残酷っていうか、すごいよくできたアーカイブだから、今野雄二さんのそれ上げると、もうすぐ下には加藤和彦が、90年代にNHKの『男の食彩』で小倉エージを相手に自分でイタリアから買ってきた、まだ輸入されてないようなルッコラやエクストラ・ヴァージンオイルや、アチェット・バルサミコを使ってサラダ食わしてる映像が載ってて。当時こんなの日本人は誰も食ってなかった、加藤和彦すごいっていう。で、あの仕事した人がね、みんな自殺してるわけです。その前には伊丹十三がいて、彼が日本で最初にサラダはキャベツときゅうりとトマトじゃダメだっていった人で、それでフランスにはこんなサラダがあって、つってサラダカンパーニュを伝えた。こういう人が老人になったらどうなるんだろう?ああいうオシャレな人が70代になっていって、日本のカルチャーはどうなるんだろうって思ってたら、70までもたないという。少なくとも戦後は、モダニストでお洒落で老人として活きるっていうことを誰もまだ示し得てないんですよね」 I「オシャレな老人は生きにくいでしょ。やっぱり」 K「洒落者は日本だとどうしてもこう戦前の神話みたいになっちゃってる白洲次郎ばっかりみたいなことになるだけど。もうちょっと80年代に活躍した人とかが出てくるといいんですが、彼らが連続して自殺したってことは、やっぱりいろいろが難しいのかなっていう気がしてしまうんですよね」 I「難しいでしょう。今の時代はきめが粗いから、デリケートな感性ってなかなか生きのびてゆけないんじゃないんですか」 K「ダンディズムはデカダンとも結びつきやすいし、フレッシュさとの関係において、アンチエイジングという凡庸さとどう、それこそ「ダンディ」に結びつけるかという命題を、彼らは残したと思うんですよ。男性用のエステがダンディハウスと言うのは象徴的ですね。無理矢理デパートの話にするわけじゃないんだけど、グランマガザンっていうくらいで全部がこう編集されてるわけですよね。要するに総合誌なわけで、結局、広く浅いと。オタクと逆ですよね。深く狭く、他のことは何にも知らないっていうような感じで。文藝春秋の打ち合わせ室とか行くとね、未だに灰皿があるわけよ。昔よくあったクリスタルの灰皿で真ん中をカチって押すと火が点いて、勝手に吸っていいマイルドセブンが何本か予備で入ってたりしてさ(笑)。男の世界なわけ。めっちゃめちゃ。マッチョなのよ。それで総合誌でさ、将棋も政治もスキャンダルも入ってて、女の裸もちょっと入って、要するに文藝春秋だよねえ。それで、こうサラリーマンが新橋のガード下でホッピーや、今だったらハイボールを飲みながら天下国家を語るっていうね。その総合的なカルチャーの在り方っていうような、こうある種、牧歌的な、お気楽な感じが今日本にはもうなくて、女性の中でも総合的に全部やるって人はいない。でも、やたらネイルができる人とか、やたら肌のことを守ってくれる人とかはいるじゃない(笑)。あるいは勝間(和代)とかさ。要するに、いきなり政治経済に詳しい発言力のある女性とか……。まあ分散してる。だからデパートの感じって言うのはもうないっていうか。だから、伊丹十三さんや今野雄二さんや加藤和彦さんってのは、デパートの1階から入って、靴もネクタイも語れて、食材語れて、ゴルフ用品も語れたと思うわけ。全フロア語れるっていう人ですよね。しかし、そういう人は死んでしまう」 I「今の時代だからこそ、そういうデパート的な、総合的なゼネラリストの感覚が重要なように思いますよね」 ▶続きを読む/日本の道徳と倫理教育の鍵を握るのは、吉本芸人とジブリ?