パリは終わってしまったのか?[前編]/菊地成孔×伊藤俊治 対談連載 vol.1
90年代のカフェ文化によるパリの変容
K「日本人のパリに対する幻想というか、そのありがたさというか、僕はもう若い人の感じっていうのがわからなくなっちゃってるんですが、例えば90年代以降の一番大きかったユースカルチャーというのは「カフェ」だと思うんです。レストランは言うまでもなく、ビストロやブラッセリーよりも幼稚な形でカフェ文化っていうのが入ってきた。カフェ文化はパリをどうこうした形でというよりも、文化祭の模擬店的な癒しというか、別の意味を持っちゃっていると思うんですけど。とはいえ、90年代はカフェと、そこに静かなDJがいて、カフェに行くと音楽が聴けるというのが一番大きかった。 例えば、オーバカナルみたいな、「これはパリ風です」「パリざんす」っていう形では消費されなかったが故に、あんなに流行ったってことですよね。その結果、90年代、カフェ渋谷系DJなるものが急激に発達して、その時に(セルジュ・)ゲンスブールの再評価があったり、フレンチポップに関する、今まで誰も歯牙にもかけなかったような音楽がもう一回見直されるような動きが出てきた」
I「ドゥ・マゴとかもそう?」
K「ドゥ・マゴ ジャポンが文化村にできたのは80年代末? あの時はまだ、おフランスざんす、でしたよね(笑)」
I「じゃあ80年代、90年代結構大きく変容があって、オーバカナルになったら、もうちょっと変質してしまった?」
K「オーバカナルが最後の「パリざんす」でしょう。「ざんす」過ぎて、パリのカリカチュアみたいになっちゃったけど(笑)。まあそれはしょうがないとして、一方でパリに簡単に行けるようになって、同時に、それこそ僕のイメージだとファッション誌とかが自分で自分の首を絞めるといったら変ですけど、パリ以外の観光地が素晴らしいんだということを啓蒙しちゃったんだと思うんですよ。クロアチアやプラハが面白いだとか、あたかもパリは見尽くしただろうっていうようなイメージの観光紹介が非常に盛んになって、そうすると60、70年代には考えられなかった、日本の観光客がプラハとパリを比べて、どっちかっていうとプラハのほうがいいよねっていうOLが出てきたのに始まって、パリは水周りが悪く薄汚い街で、でもちょっと京都みたいな底力はあって、やっぱり刀抜いたら強いんだけど、今はだいぶんキャンプになってきているんだというような。ある意味、正常な見方が定着していて、おフランスざんすの最強度が、90年代にカフェが流行ったり、フレンチポップが流行ったりする一方で、喪失感も進んじゃったっていうイメージがあるんですね、ことパリに関しては」
I「本当に戦後間もない頃は、船で何日もかかってまずマルセイユに着いて、汽車で北上してパリに行くというのが主流だった。当時の遠藤周作とかが通ったルートで、戦後の留学生たちは海山を越えてパリへたどり着いたわけですが、飛行機ができて通信網が整備されて、距離というのが喪失してしまって、一時期パリに関する情報がものすごい勢いで東京に入ってきて、ある種同時化が進んでしまいましたよね。そのほか女性誌なんかもミラノとかウィーンの特集を組むようになって、フィレンツェなんか全通りの全ショップが紹介されているというものもありました。ああいう徹底した日本の取材主義はすごいと思ったけど、店舗全部を取材して、通りごとにマーキングしていって、そういう情報量と距離の問題があっという間に浸透したんじゃないんですかね」
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