パリは終わってしまったのか?[前編]/菊地成孔×伊藤俊治 対談連載 vol.1 | Numero TOKYO - Part 3
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パリは終わってしまったのか?[前編]/菊地成孔×伊藤俊治 対談連載 vol.1

ハイブリッド化するパリカルチャー
 
K「今、やっぱりパリだよっていうのは何ですか? 建築、アートですか?」
 
I「アートや写真や建築はそうですよね。だだそれは美術館やビエンナーレなどのディレクションカとかマネージメント力に負うところが大きい。トレンドを作ったりコンセプトを練り上げていく力ですね。写真フェスティバルをパリ全体でやるとか。美術全般はやっぱりまだフランスの蓄積してきたものがすごくありますけど、ドイツとかイギリスとかそういった国々が勢いがある。パリってもともと亡命者や移民の街だった。日本人もたくさん行ってるし、今、パリは日本のアートブームだし。今年はカルティエ美術館(カルティエ現代美術財団)やポンピドーセンターで「北野武」展をやるっていうし。もうフランスがすごく他の国よりも価値があるっていうのは、なかなか見受け難いですけどね。サルコジになってから特にそうですね。パリコレとかはどうなんですか?」
 
K「パリコレは、プレタ/クチュール協会のトップが撤退を発表した直後に前言撤回。という、不安定な状態を象徴する様な事態が起こりましたが、サルコジが引いた路線をリーマンがダメ押ししたというか。2年前にパリコレに行ったときに感じたのは、日本はもうマーケットとは思われてないが、ジャポニズムというか、またパリ万博みたいになっちゃってるという印象ですね。カニエ・ウエストとかファレル・ウィリアムスとか全米で1位になるようなヒップホップの黒人アーティストが、パリコレに一時通ってまして、まあ、黒人音楽の歴史の繰り返しなんですが、最初は特異な服装だったのが、定着文化になると、ハイモードに向かう。あの状況、日本人、黒人、フランス人、各々いろんな目論みはあったんだろうけど、とにかくパリのクリエイターは東京のオタクカルチャーが欲しい。一方で東海岸のヒップホップアーティストがパリコレに来るときに、直接アタックはやっぱりできない。ましてや自分たちの音楽をパリコレで使ってくれとも言えない。言葉が汚いし、ヒップホップはユニフォーミティなウェアの印象があるので。それで仲介者みたいな感じで、日本のオタクカルチャーとくっついたんですよ。カニエ・ウエストは、村上隆に可愛いスーパーフラット系オタクアートをジャケットに描かせて全米で1位とって、ヒップホップカルチャーと豊潤な資金力というのと、日本のオタクカルチャーがくっついてパリに入っていくというやり方をしたんですね。その舎弟であるファレル・ウィリアムスは、「THE BATHING APE」という日本のファッションブランドのNIGOさんと、「ICECREAM」というブランドを香港で立ち上げた。いずれにせよ、日本、東京カルチャーと手をつないでパリに来るという。だから東京はマーケットとしては相手にされていないけど、エキゾチックな文化の発信地としてパリコレはちょっと欲しがっていて。アメリカの黒人がパリで認められる可能性っていうのは、もう歴史的に音楽家に関してはあるので、その何回目かのリターンが、オタクと肩を組んでパリを歩くっていう構造ですよね」
 
I「でもそれはすごく象徴的ですよね。元を正せば、万博なんですね。例えば1931年のパリ植民地博とかね。あれはパリが植民地の文物を、人種を、踊りを、歌をと、大々的にヴァセンヌの森で展示してたんですけど、実は逆にパリが浸食されて、その後、ハイブリッドなカルチャーをいろんなふうに生んでいくわけです。本当はその1930年代くらいから既に、博覧会混成化っていうのかな、そういうものがすごく進んでたと思うんですよね。それが21世紀になって、もっと顕在化してしまって、もう出自がわからない状態になっているんじゃないかなという気がします。31年のパリ植民地博にマダガスカル館ができるんですけど、レヴィ・ストロースのお父さんが大壁画を描いてるんです。レヴィ・ストロースも手伝っていて、彼がブラジルに行ってフィールドワークを開始したのが35年くらいなんですけど、その前に植民地的文化に、そこで身体的に触れてるんですよね。当時のフランスの人類学者たちはアフリカに行くのが主だったんですけど、彼がブラジルに行ったのは、そういう植民地博覧会文化の影響もあるんじゃないかという気もしますね。全然話違うけど、その時にマルセル・カミュの『黒いオルフェ』の脚本を書いたジャック・ヴィオという人が、『白人の降架』という本を書いて、降架とはキリストを降ろす時の仕草をいうんですけど、いわば白人の植民地主義支配の終わりを表していた。その書評をレヴィ・ストロースが書いてるんですよね。ヴィオは当時、バリバリのシュールリアリストでした。だから、レヴィ・ストロースが書評を書いた『白人の降架』の著者が、その後、『黒いオルフェ』のシナリオライターになって、1959年にリオのカーニバルのフランスとイタリアとブラジルの合作映画を作り、ブラジルとの関連がまた生まれてくるんですけど、本当は30年代くらいから、もうそういうパリの浸食のようなものがすごく広範囲に渡って進展していたんだと思います」
 
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