知られざる本当の工藤静香、
今だから語れるホンネ
アイドル、妻、母、そして一人の女性として、色褪せることなく輝き続ける工藤静香。ソロデビュー30年を迎えた彼女の素の魅力と、これまで語られることのなかった率直な思いに迫る。「ヌメロ・トウキョウ」2017年12月号掲載インタビューのノーカット拡大版!
アーミッシュジップアップジャケット¥248,000 チェックウールロングスカート ¥99,000 ハイキングアンクルブーツ ¥187,000/すべてDsquared2(ディースクエアード 東京) ベルト/スタイリスト私物
10年ほど前に彼女と仕事をしたとき、そのきっぷの良さと潔さ、責任感の強さに加え、泣き言を言わずに頑張ってしまう健気なところまで、こんな女性に家を任せたら、男は思い切り外で暴れられるだろうと衝撃を受けた。その印象は二人の娘を育てあげた今なお、ますますパワーアップし、華奢さには不似合いなほどのどっしり感が漂っている。彼女の強さは、しなやかであること。約18年、さまざまな憶測にも語らずにきたことも、「反応することだけが全てじゃないと思うから」、そう言って笑顔を見せた。
──歌手生活の中で印象に残っていること、転機だったとことはありますか?
「おニャン子クラブに入る前に、アイドルグループのセブンティーン・クラブもそうですし、その前に劇団に所属していたこともあったので、うまくいかない期間はそれなりに長くありました。そこで学んだことが力になったというか、勉強になったなと思います」
──最初から歌手志望かと思っていました。劇団は自分で見つけて?
「はい。両親が共働きだったこともあるのか、独立心の強い子どもでした。習い事のような感覚でしたけど、4年生の時に一人で電車に乗って都心まで通うようになりました。体調が悪くても、仕事が入っていたら行かなきゃいけない。人に迷惑をかけてはいけないというのは子供ながらにわかっていて、具合が悪くても行ったのは覚えています。たくさんのことを感じ、覚え、学びましたね」
──その後、14歳の時にミス・セブンティーンコンテストに出場して、特別賞を受賞します。
「ミスには選ばれなかったけど、その後、デビューのお話をいただいて。そこからが私にとっては“ちゃんとしたお仕事”という経験でした。ただ、セブンティーン・クラブの時は、華やかでバラ色の生活…とはかけ離れたものでしたけど(笑)」
──記録によると、コンテストには18万人以上の応募があったとか。そこで特別賞をもらったのに?
「 ワクワク、ウキウキみたいなものはまったくなかったですね」
──おニャン子クラブに入った時はありましたよね。ヨシ! みたいな。
「なかったです。セブンティーン・クラブで失敗を経験しているので、自分がいる環境をとても客観的に見ていました。自分はあくまで大勢の中の一人。私がいなくても誰もわからないだろうって。すごく冷静でしたね」
──セブンティーン・クラブが「失敗」と感じた理由は?
「とにかく売れなかったんです(笑)。営業にはよく行っていたけれど、一番多かったのは、ビール瓶が入っていた木箱の上で歌うこと。台風がきて突風が吹いているのに、デパートの屋上でのイベントが入っていたことも。観客は一人もいなかったので、社員さんたちが申し訳ないなという表情を浮かべながら、見に来てくれていました」
──中止にならないんですね。
「はい。そんなことが続けば、『うまくいってないんだな』というのはハッキリわかりますよね(笑)」
ソロデビュー曲「禁断のテレパシー」リリース時のポートレート
人生の質がシフトした瞬間
──成功したという感覚が持てたのは、ソロになった時?
「成功したという感覚は、持ったことがないと思います。おニャン子クラブの時も、17歳でソロデビューした時も、一生この仕事でやっていこうという決心はまだなくて。ただ…すごく覚えているのは、ファーストアルバム『ミステリアス』の中の「すべてはそれから」を歌入れしている時のこと。当時はものすごく忙しくて睡眠時間もほとんどなく、疲れていたはずなのに、音に自分の声を乗せていく作業をしながら、歌がこれほど自分の神経を集中させてくれるんだと気づいたんです」
──忙しかったけど、自分が売れているという意識はなかったんですか。
「おニャン子の中でも本当に下っ端で、私より人気のある人はいっぱいいましたから、とにかくその人たちの邪魔になっちゃいけないと思っていました。当時は寮に住んでいましたけど、売れている人はやっぱり違うなと日々感じていましたから」
──その時に「絶対に売れてやる!」と言う気持ちが沸いてきたりは?
「まったくないです(笑)」
──いい意味で肩の力が抜けているんですね。冒頭で、うまくいかなった時期にたくさんのことを学んだとおっしゃっていましたが、この時も?
「イヤだなという言動を目にした時に、自分はああいうことを言ったり、ああいう態度をするのはやめようと子どもながらに思っていました。歌手としても、一度失敗したことで多くを学ぶことができたので、デビューしたからといって天狗になることもなかった。ずっと続くものなどないから、ちゃんとしておかないとって。唯一、私が執着したのは楽曲に対してですね。『抱いてくれたらいいのに』という曲を聴いた時に、どうしても歌いたい! という強い気持ちが生まれました。本当は、違う歌と2曲用意されていて、第一候補はもう1曲のほう。でも、何がなんでもこっちの曲が歌いたい。もし私が歌えなかったら、違う人が歌ってしまうかも。そう思ってしまって、一生懸命練習しました。私にとっての「何がなんでも」は、そこでしたね」
<左上から時計周りに>シングル「抱いてくれたいいのに」「MUGO・ん…色っぽい」「メタモルフォーゼ」「黄砂に吹かれて」のリリース時のポートレート。
──2000年に結婚するまで、50 万枚以上の大ヒット曲を連発する破竹の勢いでした。
「ある時、大物女性ボーカリストの方が、本番前に『歌いたくない。歌うのは苦しいし、あぁイヤだ』って私に言ったんです。今思うと、グチを吐き出したかった時にたまたま私が側にいただけだと思うけど、20代前半の若かった私はものすごくショックを受けてしまって。聴いてくれる人がこんなにたくさんいるのに、イヤイヤ歌っているのかしら…? って。その時に、歌うことをイヤだなと思った瞬間、私はこの仕事を辞めようと決めました。それは今でも変わらない」
──94年、24歳の時にアルバムをセルフプロデュースしました。これは自立への第一歩だった?
「ずっと曲を書いていただいていた後藤次利さんから一度離れて、一人で旅に出てみようと思ったんです。どこかで変わらなきゃいけないことはある。自分で作詞を手掛けたシングル『Blue Rose』という曲を選んだ時、清水の舞台から飛び降りるような心境でした。それほど、後藤さんから離れることは大きかったですね」
──ご自身で決めたんですか?
「はい。私が決めました。ものすごく悩んだし迷いましたけど」
──自分の力を試してみたいとか?
「そういう気持ちではなかったです。ただ、形を変えるなら今だなと思ったんだと思う。形はいつか変わるものだし、どうせいつか変わるなら自分で変えたかったんでしょうね。当時の感覚や感情はもう覚えていないけど、とてつもなく高いところから飛び降りるような気持ちだったのは覚えています」
──振り返ってみて、あの時がタイミングだったんだなと思いますか?
「私は自分がしてきたことで、反省することはものすごくあっても、後悔はないです。イヤな気持ちですら持ちたくないかも。そこは自分の強がりなのかもしれないけど」
──どんな境遇でもベストを尽くし、決して後ろを向かない静香さんですが、グチを言うことなんてある?
「普段ですか? もちろんありますよ。面倒くさーい! もーヤダとか」
──さぼったりすることも…?
「ありますよ。だって結婚前は、ホントにただのポンコツでしたから」
──そういえば、お菓子だけで生きていた時期もあったとか。食事は?
「スーパージャンクでした。よく生きていたなと思うぐらい、どうしようもない人間でしたよ(笑)。明日のことなんて考えず、今日だけでいいと思って生きていましたから」
Tシャツ¥11,000 ブラックレザースキニーパンツ ¥152,000/ともにRag&Bone /Jean (ラグ & ボーン 表参道店) ゴールドのスネークヘッドピアス¥1,150,000 リング¥280,000 チェーンブレスレット¥300,000/すべてBulgari (ブルガリ ジャパン) Photo:Kazumi Kurigami
結婚、出産という最大の転機
──変わったきっかけは?
「新しい命を授かった責任ですね。独身時代の生活と、結婚してから、また子どもができてからの優先順位って、明らかに変わると思うし、変えなければ私はやっていけなかったと思います。もちろん、プライオリティを変えず、子どもが生まれても誰かに面倒を見てもらい、エステに通い、ご主人と二人で出かけるという方もいるでしょう。人それぞれですけどね」
──以前、取材させていただいた時に、妊娠した時の潔さ、腹のくくり方を聞いてさすがだと思いました。独身時代はこれで終わり、と自分の中でスッパリ切り替えたと。
「そうですね。切り替えなければ、腹をくくらなければ、『あぁ。この時間は、こう使えていたはずなのに!』ってつい思ってしまうでしょう?
事実、独身時代は自分の時間を自分の好きなように使えることが、楽しくて仕方がなかったですから。予定していた生活形態がもう一段階変わることで、今までとは違うんだと意識して切り替えることが必要だったんですね。そうしないと、自分がツラくなると思ったから」
──それから、自分の生活を見直そう、もう一人の命のために自分ができるサポートをしていこうと、シフトチェンジしたのですね。
「自分で決めたことは、貫き通すほうだと思います。それを機に、タバコもお酒もすぐにやめましたし、食べるものが血となり骨となるので、食事をものすごく見直しました」
──超ジャンクだった人が(笑)。
「ホントに(笑)。豹変ですよ。独身の時は、食事をすることすら面倒くさかったんですよね。今思い返すとすごく不思議な感覚ですけど、食事をするならお酒を飲むほうが楽しかったし、食べることに時間を使うなら、眠りたかった。あったのは責任感だけです。自分だけだったら、ポンコツでもなんでもいいけれど、人と生活する、新しい命が自分の中で育っているのなら、きちんとケアしなきゃと、栄養についても本を読んで勉強しました」
──今はパンを焼いたり、ケーキを焼いたり。日常的にされていますね。
「はい。今は、食べることが面倒くさいと思うことはないです。ただ、自分のためにはあまり労力は使いたくない。残り物の掃除は大好きです」
──ものすごく忙しそうですが、なんの予定も、することもないという時間なんて、なさそうですね。
「全然ないです。家でダラ~ッとしている時間もないです。例えば、これを一緒に観たいから座ってと、誰かに座らされれば別だけど(笑)」
──180度、変わったんですね。
「忙しくしているのが好きなんですよ。だって、別にわざわざ自分でケーキを焼かなくてもいいじゃないですか(笑)。ただ、作ってみると、どういう材料がどれだけ入っているかわかるし、家で作ったほうがやっぱり美味しいんですね。子どもたちも大好きで、「美味しいね」っておだてられると木にも登るほうなので、また作ろうかなって」
ラックドレス 参考商品 /Ralph Lauren Collection(ラルフ ローレン) スネークヘッドのネックレス¥50,060,000(予定価格) ブルーサファイヤのリング ¥28,610,000(予定価格)/ともにBulgari (ブルガリ ジャパン) Photo:Kazumi Kurigami
海との出会いが外の世界へ
──お子さんが小さい時に、自家用車だけでなく、電車やバス移動をしたことがあったと聞きました。
「そうそう。まんまと二人とも熟睡しちゃって、一人、駅で呆然としたこともありました。電車が楽しくて、子どもたちがすごくはしゃいでね。そのうちに目をつぶり、体がゆらりゆらりと揺れ始めて(笑)。起きてー! って言ったけど、二人同時に寝ちゃった。ぐにゃぐにゃになった二人を抱えて自由が丘の駅に降りて、ホームのベンチにしばらく座っていました」
──芸能人の方は、ママになっても車移動だけの人は多いと思います。
「それまでね、長い間、隠れるように生活していたんです。22、23歳になるまで、家のカーテンを開けたことがなかった。2階だろうと3階に住んでいようと、常に誰かに見られているような気がして。実際、オートロックのマンションなのに、部屋のドアポストに何かを投函されたこともあります。それが大人のおもちゃだったりしたら…どう思います? 10代の時だったら、夜も眠れなくなっちゃうでしょう? 自分の出したゴミがキレイに並べられていたのも怖かったですね。引っ越しても、同じことが起きる。生活すること自体が怖くて、カーテンを閉めて、外に出ない生活が何年も続いていました」
──よく病気にならなかったですね。
「昔はふっくらしていたのに、ある時からガクッと痩せ始めたのはそれが理由かもしれません。必要以上に神経質になっていて、人が親切でキャップを開けてくれたペットボトルも飲めなくなってしまって」
──怖い思いをした時に、誰かに助けを求めたことは?
「ないです。『うちに来て」とか「こんなことがあったから助けて』って、マネジャー以外、プライベートで言ったことはないです。話の流れで言うことはあるかもしれないけど、その時に自分から『来て』とはお願いしないと思う。その人が自ら来ようと思ってくれるならいいけど、お願いしたら迷惑かなと思ってしまう。悪いなって」
──誰かに「ワガママ」と言われたことはありますか?
「…ないと思います。もっと甘えてねと言われたことはあるけど」
──人前で泣きたくない、頑張っちゃう気持ちもありますよね。「大丈夫」って言いたいというか。
「言いたいけどね、でも最近は涙もろくてイヤになっちゃう。年齢のせいだと思うけど、涙腺がゆるくて。人前というか、テレビで泣くのだけは本当にイヤなんです。亡くなった方の話をされる時は、どれだけ自分のことをつねっているか(笑)」
──20代前半の、家にいる時はカーテンも開けずにこもっていた生活はどこかで変わったんですね。
「ものすごく神経質になっていた頃、海という素晴らしい存在に出会ったんです。ボディボードから始めて、海にプカプカ浮いてみたら水平線がすごい気持ちよくて。とはいえ、海も限られた環境でしょう? だから、子どもが生まれたらディズニーランドやいろんなところに、行かなくちゃって(笑)」
──行かなくちゃ(笑)。
「動物園も遊園地も、全部制覇しました。誰かに頼んで子どもだけ連れて行ってもらうこともできたと思います。でも、それはイヤだった。自分が産んだ子だから、自分で連れて行きたかったし、子どもが初めて目にするものは、自分も一緒に見たかったんですね」
ソロデビュー30周年記念ライブ「Shizuka Kudo 30th Anniversary Live 凛」
30年分のファンへの恩返し
──娘さんたちが、お母さんの仕事や活動について何か言うことはありますか?
「いえ。ただ、最近、昔のこと…80年代に何週連続で1位だったとかを知って、『そんな人だったの?』って、急に言われたことはありました」
──私たちが知っている、バリバリに活躍していた仕事人、という印象はないんですね。
「わからないです。子どもにとってはただの小うるさい人ですよ、きっと(笑)」
──今後、結婚する女性のために伺います。一生側にいたい人、そうでない人、それを見極めるポイントってどこにあると思いますか?
「私は、すごく子どもっぽいところにあると思っています。コケるぐらい」
──ぜひ聞きたいです(笑)。
「明日、地球が終わります。あなたは誰と一緒にいたいですか?」
──素敵ですね。振り返って、今の自分にはあるけれど、昔の自分にはなかったなと思うものはなんですか?
「物事を判断するスピードかな。昔は結果を急いで、すぐ反応していました。頭にきた時も、昔だったらその場で言っていたことも、どんなに頭にきていても、一度家に持ち帰るの。で、1日寝てみるんです。朝起きてもまだ頭にきていたら、その人に話をしようかなって。それは明らかに変わりました。仕事をしていても相手に即答を求めなくなりましたね」
工藤静香『凛』通常盤¥2,315(ポニーキャニオン)
──デビュー30周年を迎えて、アルバム『凛』が発売されました。12年ぶりですが、これはファンの人への恩返しの作品とか?
「はい。その気持ちでインスタグラムも始めました。ファンの方には応援してもらっているだけじゃなく、私自身が成長させてもらっている。その皆さんに、今はこういう歌を歌って、こういうことに興味があります、ありがとうねっていう気持ちを伝えたかった。30周年でオリジナルアルバムを出すことは、以前から決めていたんです。新しい曲と昔のヒット曲を組み合わせるのはよくある形だけど、それは絶対にイヤだった。全曲オリジナルの作品を皆さんに届けたかったんです」
──松本孝弘さん、玉置浩二さん、岸谷香さんらが曲を提供しています。
「本当は10曲にしたかったのですが、中島みゆきさんがとてもお忙しくて…。今まで作家の方にお願いして、難しいと言われたら再度聞くことはなかったんですけど、今回初めて「詞だけでも」って2、3回しつこく聞いてしまいました。他の曲をみゆきさんの曲の代わりに埋めたくなかったので、それで9曲にしたんです」
──欠番のまま。
「はい。自分のこだわりですけどね」
──9月のツアーは東京、名古屋、大阪の3か所でした。生活に余裕ができたからツアーが実現した?
「本当の意味で余裕ができるのは、あと5年くらい先でしょうね。35周年では、もっと余裕をもってツアーにも出ていると思います」
──さらなる未来を見据えている感じですね。
「そうですね。自分の範囲内で、無理のないよう、様子を見ながらお仕事できればと思っています」
SHIZUKA’s style
「工藤静香」フォトアルバム
<上左>44歳の頃、思いっきりショートヘアにイメチェン。<上右>お気に入りのスタッズのブーツは「クリスチャン ルブタン」。<中左・右>部屋に置いている気持ちのいいアイテム。「ゴローズ」のジュエリーとターコイズ。<下左>次女と海釣りに。大漁!<下右>30周年記念ライブ後、「マミー、お疲れ様!」と娘たちからプレゼントされたワンピースを着て。
工藤静香30周年記念ライブのレポートはこちら
Photos:Kazumi Kurigami Styling:Ryoko Kishimoto
Hair&Makeup:Hirokazu Niwa
Interview& Text:Atsuko Udo Edit:Masumi Sasaki