【バスキア展 メイド・イン・ジャパン】ギャラリスト&コレクターが語る「バスキアと80年代」
11月17日まで開催中のジャン=ミシェル・バスキア日本初の大規模個展「バスキア展 メイド・イン・ジャパン」。これまで多くの人に愛されながらも、日本では直接見る機会がほとんどなかった約130点の作品が、森アーツセンターギャラリーに集合している。
バスキアはさまざまな媒体、映像作品、書籍において、まるでポップ・スターのように語られ続けている。けれど、「バスキアの作品を観ること」以上に彼を知る方法はないはず。この貴重な機会を逃さずに、ぜひ何度でも足を運んでみてほしい。 今回は、NYのアート・シーンにおいてバスキアとの関わりが深いトニー・シャフラジ(ギャラリーオーナー)、ジェフリー・ダイチ(キュレーター、ギャラリスト)、ラリー・ウォルシュ(アート・コレクター)の3人にインタビュー。バスキアのこと、80年代のことを振り返ってもらった。
Tony Shafrazi
トニー・シャフラジ/ギャラリスト、アーティスト。NYはチェルシーにあったトニー・シャフラジ・ギャラリーのオーナーであり、1985年にはウォーホルとバスキアの共作展も開催。フランシス・ベーコン、キース・ヘリング、ケニー・シャーフなどの作品も扱っていた。 ──あなたが知っているバスキアについて教えてください。 「バスキアは磁石のように人を引きつける人だった。絵を描く前から彼に魅了されていたんだ。70年代後半にペンシルベニアからやってきたキース・ヘリングや、カリフォルニアからやってきたケニー・シャーフがスクール・オブ・ヴィジュアル・アーツで出会い、バスキアもそのサークルの中にいた。展覧会のオープニングなどで見かける彼は長いコートを着て、髪の毛を剃ったりしていて、その頃から目を引く存在だったよ。80年頃から小さなコラージュのカラーカードを売り、絵画作品を描き始めたのを見て、“彼は我々の時代のゴッホだ”とすぐに感じた。ダイナミックでエネルギッシュ、ユニークでオリジナルだった。あるとき一緒に肩を組んでストリートを歩いていると、彼はふとこう言った。『トニー、愛しているよ。君が黒人だったらよかったのにね』。バスキアがなぜそんなことを言ったのか、若い人がなぜそういったことを言うのか、考えさせられたよ」──80年代のNYについて教えてください。
「80年代のアートシーンを理解するためには、まずそれ以前の歴史を知らなければならない。第二次世界大戦後、アメリカの産業や文化は大きく変わっていった。50~60年代はポップ・カルチャーがとても重要になり、低予算のニューシネマも到来した。たった100ドルでも映画が作れたし、以前のハリウッド大作だけではない、新しい時代がやってきたんだ。60年代のアーティストは誰もお金を持っていなかった。ラッキーなアーティストは学校で教えていたが、たいていは仕事をいくつも掛け持ちして、タクシードライバー、水道修理、床の修復などの重労働をして生計を立てていたんだ。そして80年代になると、どんどん新しい次元が加わり、新しい言葉が加わり、グラフィティはアートの仲間入りをした。80年代はクラブの時代でもあった。多くの展覧会がクラブで開催され、たくさんの若者がそこに集まった。当時、8丁目のクラブではキース・ヘリング、バスキア、ケニー・シャーフ、マドンナの展覧会が開催され、毎週土曜日にはSF映画を上映していた。パフォーマンス・シアターもあった。マドンナはキースの親友で、バスキアとデートをしていた。素晴らしい時代だったよ。現代のアートシーンにはないものがあったんだ」
Jeffrey Deitch
ジェフリー・ダイチ/ギャラリスト。ギャラリー「ダイチ・プロジェクト」の経営者であり、ロサンゼルス現代美術館長を務めたことでも知られる。アート・ディーラー、キュレーターとしてバスキア、アンディ・ウォーホル、キース・ヘリングなど多くの作品を扱っていた。
──あなたが知っているバスキアについて教えてください。
「80年代にNYのダウンタウンに住んでいた多くの人のように、私もストリートに描かれたSAMO(バスキアとアル・ディアスによるグラフィティアートのユニット)の詩を見て驚愕した一人だ。クラブの壁や、トップアーティストが住むビルなどに描かれたSAMOの落書きは、当時アーティストやライターの間で一番の話題だった。最初にバスキアに会ったのは、彼がカナル・ストリートのクラブでGRAYというバンドで演奏していたときのこと。私はラッキーなことにそこに居合わせていた。私の隣でビバップを演奏していた人がバンドを指差し、『彼がSAMOだ』と教えてくれたんだ。『彼らがあのミステリアスなヒーローのSAMOか……』と思ったよ。その1年後、タイムズスクエアでバスキアのインスタレーションを見たのが1980年の夏で、その頃にはもう彼はダウンタウンのコミュニティではアイコン的な存在になっていた。彼とは徐々に親しくなっていったんだ。バスキアはダ・ヴィンチやピカソと同じように現在も語られ、再発見されている。その限られた作品の中には、アフリカ系アメリカ人の歴史があり、ジャズやヒップホップといった音楽があり、アメリカや西インド諸島があり、数え切れないほどの要素を見つけることができるんだ」
──80年代のNYについて教えてください。
「現在のアーティストは弁護士や医者のように学校に行き、インターンシップを経験し、キャリアを積んでいるが、当時のアートは今のように職業化していなかった。当時はみんなお金がなかったし、NYでの生活にもそこまでお金がかからなかったんだ。70~80年代で興味深いのは、すべてが密集していたこと。人々はソーホー、トライベッカ、ロウアー・イースト・サイドに住み、ストリートやバーで人と会っていた。当時、NYのアーティストは巨大なロフト・スペースを持ってて、そこで最低限の生活をし、作業をして、作品を発表していたんだ。当時はトップ・アーティストも無名のアーティストも、生活スタイルはあまり変わらなかった。インターネットのない時代だからこそ、バスキアの絵や詩があらゆる壁にあり、それはとても効果的なコミュニケーションになっていた。当時はすべてのアーティストがダウンタウンにいて、誰とでもすぐにコミュニケーションができたし、何かアイデアが欲しければストランドブックストアで古本を手に入れればよかった。とても平等でオープンな時代だったんだ」
Larry Warsh
ラリー・ウォルシュ/アート・コレクター。早くからバスキア作品をコレクションしていた一人。『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』の開催に合わせ、バスキアの残したノート8冊の作品をまとめた『ザ・ノートブック』(2015年)の翻訳版『バスキア ザ・ノートブックス』や、さまざまな資料からバスキアの言葉を集めた『バスキアイズムズ』(2019年)が刊行された。
プリンストン大学出版局より2015年に刊行、2017年に再版された『ジャン=ミシェル・バスキア ザ・ノートブックス』の和訳本。バスキアが書きためていた貴重なノートブックを複写した一冊からは、80年から87年までの詩やスケッチの断片を見ることができる。彼が見ていた文化、人種、階級、都市生活などに関する個人的な観察と手書きの線からは、ペインティング作品とはまた違う一面を感じられるはず。バスキアの創造のプロセスとして見るのも楽しい。こちらは森アーツセンターギャラリーの特設ショップほか、ブルーシープのウェブショップで購入できる。
──あなたが知っているバスキアについて教えてください。
「私はバスキアの友人ではなかったし、彼と直接関わることは少なかった。けれど、私の手にはバスキアが残した8冊のノートブックがあり、そこからは多くのことを感じることができる。その一番の魅力は、スタイル。彼の手で描かれた言葉や古い電話番号なんかがページに散らばっていて、ときにはそれが意図をもって消されていたり、マークされていたりする。その“意図”の部分が重要なんだ。それは感覚的でもあり、瞑想的でもあり、とても綿密で周到でもある。このノートは、ただの無作為なメモではなく、それだけで完成された作品なんだ」
──80年代のNYについて教えてください。
「NYにとって80年代というのは非常に重要な時期で、たくさんのアーティストやギャラリーが存在していた。とてもハッピーな時代だったよ。バスキアはその中心にいた、普遍的なアーティストなんだ。彼の人生は短かったが、彼は80年代のピカソのようだった。バスキアは驚くべきことに、未だに多くの人々の記憶に残っていて、作品によって当時の証言をしているかのようだ。バスキアの作品は明らかに他の作品とは違ったんだ。当時の人、場所、エネルギー、さまざまな要素がひとつになり、80年代という時代を表していた。そして、それは今のアートシーンやカルチャーにも大きな影響を及ぼしている。ぜひ展覧会でこのノートブックを見て、彼のインスピレーションや価値観を読み取ってみてほしい」
「バスキア展 メイド・イン・ジャパン」
会期/2019年9月21日(土)~11月17日(日)
会場/森アーツセンターギャラリー
住所/東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー 52階
開館時間/10:00~20:00(最終入館19:30)
※10月21日(月)は17:00まで(最終入館16:30)
www.basquiat.tokyo
Photos & Text:Mayu Sakazaki