トム・クルーズ、キャリア最高峰の怪演! 鬼才イニャリトゥ監督との初タッグ作『DIGGER/ディガー』 | Numero TOKYO
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トム・クルーズ、キャリア最高峰の怪演! 鬼才イニャリトゥ監督との初タッグ作『DIGGER/ディガー』

アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督とトム・クルーズが初めてタッグを組んだ。同世代でもある映画巨人ふたりが激突した2026年の最新作『DIGGER/ディガー』は、気候変動をテーマにしたディザスター映画のようでいて、その実態は現代アメリカそのものを解剖する壮大な風刺戯画である。舞台は、環境破壊によって崩壊へ向かう世界。そして主人公は、その危機を生み出した張本人でもある石油王ディガー・ロックウェル(トム・クルーズ)だ。

資本主義時代末期の超巨大風刺劇

権力と飼い猫マギーをこよなく愛するディガーは、アメリカ大統領コンプソン(ジョン・グッドマン)と結託し、アラスカやグリーンランドでの大規模な石油開発を推進してきた。だが地下に眠るメタン層への警告を無視した結果、巨大な氷棚が崩壊し、ヨーロッパ全土を飲み込む未曾有の災害が発生する。世界を危機へ追い込んだ当人でありながら、同時に救世主として振る舞おうとするディガー。その滑稽極まりない姿を通して、本作は現代資本主義の自己矛盾を容赦なく暴いていく。

ハイライトのひとつは、欧州議会でディガーが行うスピーチだろう。なぜ地球規模の環境破壊を承知しながら事業を推し進め、手遅れになる前に止めなかったのか?──と糾弾された彼は、自らの責任を認めながらもこう反論する。「ごまかすのはやめよう」と。石油を掘ったのは自分かもしれない。しかし石油を欲したのは誰なのか。快適な暮らしを求め、便利さを享受し、持続不可能であることを知りながら消費を続けてきたのは人類全体ではなかったか。

近年、「共喰い資本主義」(ナンシー・フレイザー)などの言葉で論じられることも多いアメリカ型資本主義の行き着く先。本作はその状況を、現実そのものとして描くのではなく、あえて毒々しい漫画や戯画のレベルまで誇張する。直腸がんを患いながら中国やロシアへの核攻撃を叫ぶ大統領、迫る破局を前に支持率や広報戦略ばかり気にする権力者たち。モンティ・パイソンの芸風も連想するが、そこには『博士の異常な愛情』(1964年/監督:スタンリー・キューブリック)や『ドント・ルック・アップ』(2021年/監督:アダム・マッケイ)にも通じる終末喜劇の系譜が見て取れる。

【以下、ネタバレを含みます】

さらに本作が単なる政治風刺に留まらないのは、突如として観客の足場をひっくり返すからだ。ある瞬間、故障した舞台装置によって物語は中断される。そして観客は、それまで見ていた「ディガーの物語」が実は『化石の愚者(Fossil Fools)』という舞台劇のリハーサルだったことを知る。ディガーを演じていたのはディガー本人ではない。俳優カーティス・マークソンだったのだ。この重層的な入れ子構造が露わにされてから、映画はまったく別の姿を見せ始める。

本作の楽屋には、ジョン・カサヴェテス監督の『オープニング・ナイト』(1977年)のポスターが飾られている。ブロードウェイの舞台裏を舞台に、名声ある女優が新作舞台の初日へ向かう葛藤を描いた傑作だ。舞台と現実、役柄と演者、自我と他者。その境界が揺らぐたび、人は自分が何者なのかを見失っていく。『DIGGER/ディガー』は明らかにこの作品へのオマージュを通して、カサヴェテスが見つめた不安と混乱を受け継いでいる。

もっとも、その手つきはカサヴェテスの生々しい即興性よりも、はるかにイニャリトゥ的な設計に基づいている。演劇を内包しながら虚構と現実を撹乱していく構造は、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014年)を直ちに想起させるだろう。しかし本作が興味深いのは、その自己反照的なまなざしがアーティストの自意識に留まらず、社会全体へと向けられている点にある。『バードマン〜』が俳優と演劇をめぐる映画だったとすれば、『DIGGER/ディガー』が見据えているのは、現代社会そのものだ。

その中心にいるのが、トム・クルーズ演じる(ディガー役の)カーティス・マークソンである。近年のトム・クルーズといえば、『ミッション:インポッシブル』シリーズに代表される超人的アクションヒーロー像が真っ先に思い浮かぶ。しかし本作で彼が見せるのは、その対極に位置する演技だ。ディガーという強烈な人物を演じる場面では声を張り上げ、怒鳴り散らし、大芝居を連発する。誇張された身振りと尊大な物言いは、ほとんど漫画そのものの怪演だ。

思えばトム・クルーズは『マグノリア』(1999年/監督:ポール・トーマス・アンダーソン)においても、自信と虚勢で武装した男の内側に潜む脆さをむき出しにしてみせた。本作のディガーもまた、自らが作り上げた権力の虚構へ必死にしがみつきながら生きている人物である。その滑稽さのなかに、どこか人間的な愛嬌や哀れさが残されている。そして映画が進むにつれ、その視線はディガーだけでなく、彼を演じるカーティス自身へと向かっていく。そこでトム・クルーズは、スターであることの虚構を半ば自覚的に利用しながら、「演じるとは何か」という映画のテーマを自らの身体で体現してみせる。

視覚的な迫力も圧巻である。撮影監督は『バードマン〜』、『レヴェナント:蘇えりし者』(2015年)に続いてイニャリトゥと組む名手、エマニュエル・ルベツキ。1954年製のビスタビジョン(35mm 8パーフォレーション)フィルムとヴィンテージのライカレンズを使用し、さらに全編を巨大なスタジオセット内で撮影していることもあり、本作の空間はどこか現実離れした奇妙な質感を帯びている。ディガーの豪奢な邸宅、政治家たちが集う会議室、雪と氷に覆われた終末的な風景。それらは現実世界の再現というより、現代アメリカという国家の無意識を巨大な舞台装置として視覚化したかのようだ。スタジオ内に構築された大型の虚構(セット)を通じて、現実の社会や人間の滑稽さを容赦なく描き出した点で、本作はフェデリコ・フェリーニ的でもある。イニャリトゥはここで、『バードマン〜』の演劇性と『8 1/2』(1963年)の幻想性を結びつけ、極めて特異な映画空間を作り出している。言ってみれば本作は、“フェリーニ meets カサヴェテス”とも呼びたくなる作品だ。

そして『DIGGER/ディガー』がたどり着く場所は、「人類は破局とどう向き合うのか」という極めて切実な問いである。気候危機。民主主義の機能不全。資本主義の暴走。そして誰も責任を取りたがらない社会。ディガーという人物は、そのすべてを極端な形で体現した怪物である。しかし映画は彼を単純な悪役として裁き切ろうとはしない。むしろ問われているのは我々観客自身だ。石油を掘る者だけが悪いのか。消費する者は無関係なのか。崩壊へ向かっていることを知りながら、その便利さを享受してきた我々は本当に被害者だけと言えるのか。

終盤、映画はさらにもう一度、観客が立っている足場そのものを揺さぶる。詳細には触れないが、そこには『バードマン〜』以上に大胆な形で現実と虚構を反転させる仕掛けが待っている。風刺劇として始まった物語は、いつしか現代そのものを映し出す鏡へと変貌し、静かな戦慄を残して幕を閉じる。米国型資本主義の末期症状を、毒々しい笑いと途方もないスケールで戯画化した超大作。風刺劇そのものを多重化してみせた高次のイニャリトゥ節である。笑いながら観ていたはずなのに、気づけば自分自身が裁かれている。そんな不穏な後味を残す、第一級の風刺映画だ。

『DIGGER/ディガー』

監督・脚本/アレハンドロ・G・イニャリトゥ
出演/トム・クルーズ、リズ・アーメッド、ジョン・グッドマン、ザンドラ・ヒュラー、マイケル・スタールバーグ
上映中
https://digger-movie.jp/

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Text:Naoto Mori Edit:Sayaka Ito

Profile

森 直人 Naoto Mori 映画評論家、ライター。著書に『シネマ・ガレージ~廃墟のなかの子供たち~』(フィルムアート社)、編著に『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)ほか。『週刊文春』『朝日新聞』『TV Bros.』『シネマトゥデイ』などでも定期的に執筆中。 YouTube配信番組『活弁シネマ倶楽部』でMC担当中。
 

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