ついに日本公開!『TAR/ター』の見どころは リディア・ターのパワーシックな衣装にあり。
ケイト・ブランシェット主演、トッド・フィールド監督の話題作『TAR/ター』がついに日本公開。期待を裏切らないケイト・ブランシェットの熱演により、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされ、“衝撃的な結末”や“難解なストーリー”などの噂で公開前から話題に尽きない本作。ネタバレは一切なしで、ファッションの話題を盛り込みながら、レビューをお届けします。
最初に本作を観た個人的な感想は「今すぐにでも、LEMAIRE(@lemaire_official)のお店に行かないと」だった。ケイト・ブランシェット演じるリディア・ターは善人とは言い難いが、映画『キャロル』を上回る宝塚的なかっこよさにすっかり魅了され、結末には心の底から驚き度肝を抜かれたのだが、正直なところ、主人公のワードローブの素晴らしさに最も心を打たれた。
オーケストラの最高峰であるベルリン・フィルで、女性初のマエストロ(主席指揮者)として君臨するリディア・ター。類い稀な音楽的な才能と圧倒的な自己プロデュース力で頂点に登りつめた彼女は、時代の寵児であり、同じベルリンフィルの第一バイオリンを務めるパートナーと家庭を持つレズビアン。権威と人々の尊敬の眼差し、愛、裕福な生活、すべてを手に入れたかのようだった。しかし、マーラーの交響曲第5番の演奏とレコーディング、作曲のプレッシャーの中、過去に指導した若手指揮者の訃報を受け、あらぬ疑いをかけられて追い詰められていく。
本作がパワフルなのは、やはり女性の描かれ方にあるだろう。最近では、映画に、性別や人種、職業、宗教などの描き方に正しさが求められ、その必要性や意義を十分理解した上でも、時に道徳的な答え合わせの作業を作品に強いられているように感じることがある。一方で『TAR/ター』は、抑圧されてきたマイノリティーでさえ、彼ら自身が忌み嫌ってきた特権を手にすると、自らを見失い振る舞いを誤ることがあると示唆している。さらに、クラシック音楽がたどって来た歴史と荘厳な様式美を目の前にすると、特権や人間の業を必要悪に感じてしまう危うい人間の弱さについても。また、舞台となったベルリンという街は、現代の建造物とナチス時代の負の遺産がそこここに混在し、善悪の判断を人々に委ねる特有のムードがある。そんな街の“顔”となったリディア・ターも音楽界を牽引する重圧と自らの野望、振り返りたくない過去、人間の善意と悪意に翻弄されることになる。
そんな物議を晒す本作には、“ファッション的な映画”にあるような色とりどりの華やかなドレスやメイクアップは一切ない。むしろ、某ブランドの真っ赤なアイコンバッグをぞんざいに扱うような女性が主人公だ。そんなリデイア・ターだが、冒頭にドイツのテーラーEgon Brandstetterでスーツの仮縫いを行い、 その後も当然のようにThe Row、Jil Sander、Lemaire、Max Mara、Studio Nicholsonなどの上質なシャツやニットに、立ち姿が映える美しいシルエットのハイウェストのスラックス、灰色の街に際立つロングコートなどを組み合わせてまとう。アイテムこそベーシックだが、何よりもリディア・ターの仕事に没頭し、彼女なりに懸命に生きる姿を着飾ることではなく、シックで洗練された引き算の美学で力強く表現している。それが、パワーシックと呼ばれる所以だろう。中盤、舞台上で怒りを爆発させる場面で着用しているスモーキングは、おそらく衣装デザイナーのビナ・ダイヘレル作。スタンドカラーの首元で輝く、小さな金ボタンのさりげなさに悶絶する人も少なくないのでは。
そして、作中では指揮者という存在と時間の関係について、幾度となく語られる。リディア・ターも常に腕時計を身につけて確認し、神経質に手首から取ったり付けたりを繰り返す。この腕時計はスクリーンにはっきり映されることはないが、噂では50年代のロレックスのヴィンテージウォッチ。すっかり“リディア・ターウォッチャー”となった身としては、鑑賞中あまりに時計の銘柄を認識できず、終始悶々とすることに……。成功の証として語られ、極めて男性的なアイテムである腕時計が彼女の手首を美しく飾り、成功者としていられるリミットまでの時間を刻んでいくのは何とも皮肉なことだ。
終盤、いよいよ精神的に極限を迎え、ニューヨークへ旅立つシーンでは、リディア・ターが珍しくキャップを被っていることに気づくはずだ。調べれば、NHL(ナショナルホッケーリーグ)のニューヨークレンジャーズのキャップで、彼女のアメリカ人らしさと、激しくぶつかり合うスポーツの観戦を好む一面が読み取れる。ヨーロッパの社会からはじき出された、よそ者としてのアメリカ人の葛藤や怒りを表しているのだろうか。
その後、結末に向かって物語は一気に急旋回していき、リディア・ターのパワーシックなファッションも精彩を欠いてほころびていく。しかし、くたびれた服装にさえ、逆境でも情熱的に表現を模索するリディア・ターの強烈な生き方と、彼女のキャリアがクラシック音楽界で燃え尽きたことを暗喩しているようで、かっこよく見えてくるのが不思議だ。この瞬間、彼女は腕時計をつけていただろうか。
最後に、本作はクラシック音楽界に実在する人物や団体、実際に起きた事件や根深い権威主義や性差別をベースに脚本が練られているという。あっという間の159分、リディア・ターのカリスマ性やファッションのトピックはもちろん、作品を通して問題提起している、クラシック音楽の歴史とそのオルタナティブの存在、作中に散りばめられた意味深な演出、最後まで謎のまま疑惑など、あれこれ考えを巡らせても1度観ただけでは腹落ちしない、複数のレイヤーから構成されている。様々な角度からの謎解きが楽しめるはず。精神状態が良好なときに、映画館で没頭して観ることをお勧めしたい。
『TAR/ター』
監督・脚本・製作:トッド・フィールド
出演:ケイト・ブランシェット
音楽:ヒドゥル・グドナドッティル
原題:TÀR/アメリカ/2022年 © 2022 FOCUS FEATURES LLC.
配給:ギャガ
TOHOシネマズ日比谷他全国ロードショー
https://gaga.ne.jp/TAR/
Edit & Text:Aika Kawada