大宮エリーのアートへの道
マルチな才能を発揮する女性クリエイター
CMディレクター、映画監督、映像ディレクター、演出家、脚本家、コピーライター、作家、ラジオパーソナリティー、アーティスト…いくつもの肩書を持ち、ジャンルを越えて表現をする大宮エリー。現在、青森・十和田市現代美術館にて個展「シンシアリー・ユアーズ」を開催中の彼女にインタビュー。
みんなが見たいものを探り当てるのが楽しい
──今回の展覧会で展示されている作品は、どのように選んだのですか?
「作品は副館長の児島やよいさんと小山登美夫ギャラリーの小山さんが選んでくれました。私は絵に関してはお任せしています。人の作品を選ぶことはできるけど、自分の作品を選ぶことはできないので、キュレーターの目が入ったほうがいいと思いました」
──最後の展示室にある虹の絵《希望の海》や、カフェスペースに展示されている作品は、ライブペインティングで描いたそうですが、公開制作で人とコミュニケーションを取りながら描くのがスタイル?
「いや、そんなことなくて、公開制作は描きにくいです。人が見ている中、集中しないといけないし、見ている人が納得する絵を描かないといけない。だいたい音楽と一緒にやるんですけど、1、2曲はほぼ飲んでるだけ。飲みながら音楽を聴いていると、描きたいものが見えてきて、描き始めます。音のエネルギーを絵にしたいんです。たとえば虹の絵だったら、虹がいいな、と最初に思いつく。音を聴いているうちに『希望の虹』になったらいいと思いました。ライブ中、お客さんがなんとなく海を感じてるように思ったから、海を描く。すると、みんなが『海かあ』という反応をする。お客さんと私の中で一体感が生まれる。同じものを見られるようになる。次に、音楽が『誰かを思う海』みたいな感じがして、でも『誰かを思う空』は青空じゃないな、と思う。『誰かを思う』って不安だ。だから、雲り空を描いたんです。それで、振り返るとみんなが不安そうな顔をしている。あ、ちょっとやりすぎちゃった。それで、最後に虹を架けた。振り返ると、みんな泣いていました」
──まるでDJのように、人の心を踊らせ、揺さぶりますね。
「みんなが見たいものを探り当てるのが楽しい。だから、みんなで描いた絵なんです。その場に行かないと描けなかった絵。ライブペインティングって、最初に想定していた絵があったとしても、最終的にはそこへ着地するかどうかわからない。ひとりじゃ描けないから」
──ミュージシャン同士のセッションのような。
「そう。でも、ミュージシャンは曲があるからいいけど、私はこの絵という決まったものはない。だからすごく緊張する。お酒でほぐすしかない(笑)。ブラフマンとやった時は、13本くらいビールを飲みました(笑)。ほとんど記憶ないんですけど、作品は良いものが描けました。描いている時は、エネルギッシュになります。相当動き回るので、ハーハー言いながら描いています。ローラーを使って、最後は手で描いて終わることが多い。描きたいものに道具が追いつかず、手のひらで描く。翌日筋肉痛になりますね」
絵を描くようになったのは“呼ばれた”から
──公開制作ではなく、ひとりで描く時はどのように描くのですか?
「自然からエネルギーをもらうんです。最初に絵を描いたのは、ベネッセの会長(福武總一郎)さんが賞を受賞されて、そのパーティーにインスタレーション作品を展示したいと小山登美夫さんに言われたんです。パルコミュージアムで『思いを伝えるということ』展というインスタレーションをやっていたので。どの作品にしようかという打ち合わせに行ったら、どんどん話が変わり、追加でライブペインティングをやってほしいという話になりました。ノーって言えない雰囲気だった。それが絵を描くことになったきっかけです。パーティーには安藤忠雄さんや杉本博司さんもいらしていて、動揺してワインをばーっと飲んで描いたんです。そうしたら、お客さんがみんな拍手してくれて、まあパーティーだから拍手するんでしょ、と思っていたら、ベネッセの福武会長から『最近ピンとくる絵がなかったけど、これすごく欲しい』って言われました。その後、『私のギャラリーで絵を描いてほしい』とその場にいらした生駒芳子さんから言われたんです。次の個展が決まりました。
その前日までハワイ島に行っていて、いろいろ事件に巻き込まれ、ヒッピーの人の家に泊まっていたら、酋長さん(カフナ)に会わされて、酋長さんに、『あなたは火の女神ペレに呼ばれてきた。ペレに会いに行きなさい』と言われたんです。『マグマが吹き上げてて、海に流れるところがあるから、そこに行って花を投げ入れなさい』って言われて、ヒッピーの人と一緒に真っ暗な中、星を頼りに、道なき道を行きました。本当にマグマが海に流れているところがあって、大地が生まれる場所でマグマの赤を見ていたら、涙が出てきて、『これは地球の愛なんだ』と思いました。『私、地球に愛されてる』と感じて、うれしくなって、孤独だし、結婚もしてないし、でも全然平気、って思えちゃったんです」
「日本に帰ってきたら、生駒さんに『ラブをテーマに描いてほしい』と言われて、『私ラブを見てきました』と、《赤い女の子》を描いたんです。真っ暗な中、溶岩大地を歩いていた時に、なんで私こんな目に遭うのかと思って腹が立ったし、なんでノーって言えなかったんだろう、これでもし命を落としたら……とか思うんだけど、行くしかない。でも行って、マグマの赤を見た時に、私はこれを見るためにここに来たんだって思う。呼ばれてたってやつで、全部呼ばれてこうなってる。断らない。絵もそう。描くことはとても自分にとって意味のあること」
ズタボロになりながら次々と現れる扉を開けてきた
──自分から行きたいと思ったものは?
「それは薬学部です。お父さんの病気を治したかった。でも、結局挫折しちゃったんです。向いてなかったことに気づいて。怖くて、というかかわいそうで、マウスに注射できなかったんです。そんなの最初から気づいていれば受験しなくて済んだのに、入ってから気づいて、私の受験勉強ってなんだったんだろう、夢って何だろう、となってしまって、そこから夢がなくなっちゃったんですよね。もう、どこでもいいから就職したい、食っていけりゃあいい、と受かったのが広告代理店だったから広告をやってみた。結局、組織が合わないなって、7年で辞めて、最初にいただいた仕事が週刊文春の『生きるコント』っていうエッセイだった。なにかそういう扉が現れた時に、恐ろしいけど、感謝して勇気出して開けてきた。どんどん現れる度に、その扉を開いた。飛び込んでばかりいると、もうズタボロみたいな感じ。ズタボロになるんだけど、意外と何年かたつと慣れてくるじゃないですか。一応経験も増えてきて、なんかちょっと見えてきた時に、また次の扉が現れる。それで変な筋肉がいっぱい付いていく。でも、もう40歳なので、このアートが最後の扉かなと思っています。取材でよく『なんでいろんなことやってるんですか』って聞かれて、仕事が自分を成長させてくれると思ってやってきたけど、いま振り返ると全部が絵につながってたのかな、と思います」
──言葉の表現と絵の表現ではどう違いますか?
「言葉はどんなにつらいことがあっても書けるんです。しょうがないから書く。締め切りがあるし、結構ギリギリで書いてるんですよ。でも絵は、そうはいかない。心と身体を整えて、神社に行って参拝してから描くって感じです。私にとっては神聖な行為。言葉は道具として使っている。大失恋したとしても、締め切りだったら書ける自信があります。でも、絵は描けない気がする。描けない状況で描いちゃいけない気がする。テクニックで描いちゃいけないんじゃないかと思うんです。文章はちくちく編み込んでいくというか、結論を紡いでいく理性の作業。絵は心、感情で描いています。できるだけ子どもになって描いていて、子どもの無垢さ、目で見るんだけど、構成力はある。それがプロの仕事だと思っています」
──いまは文章と絵を両方やっていることで、バランスが取れているということでしょうか?
「結構、自分を押し殺してきたけど、絵によって自分を開放できる場が見つかったという感じです。感情に素直になれるというか。サラリーマン経験があるから、相手のことを考えながら生きるクセがついていて、嫌って言えない。いじめられっこだったということもあるけど、言うと嫌われるんじゃないかという卑屈感があります。でも、絵は他の仕事と違って自分で全部できる。それに、絵ってみんなで見ることができるから、そういう空間、場を作れるのが面白い。言葉で伝えられないことを伝えられるんです」
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Text:Koyuki Awai
Edit:Masumi Sasaki