カンヌでも話題に。松たか子×石橋静河が美術館のある町で響き合う『ナギダイアリー』

深田晃司監督が松たか子を主演に迎え、岡山県奈義町をモデルにした架空の町「ナギ」を舞台に撮りあげた最新作『ナギダイアリー』。劇団・青年団で1994年に初演され、翌年、第39回岸田國士戯曲賞を受賞した平田オリザの初期の代表作『東京ノート』に着想を得て、深田監督自らオリジナル脚本を執筆し、企画の立ち上げから10年近い歳月をかけて完成させた作品である。本作は2026年5月、第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品。深田監督にとって『淵に立つ』(2016年)の「ある視点」部門、『本気のしるし〈劇場版〉』(2020年)のオフィシャルセレクション、『恋愛裁判』(2025年)のカンヌ・プレミア部門に続く4度目、そして初のコンペティション部門選出となった。

孤独でも、孤立はしない──深田晃司監督が紡ぎ出す温かで優しい傑作
そもそもの始まりは2016年8月。深田監督のもとに、他ならぬ平田オリザから一通のメールが届いた。そこに記されていたのは、岡山県奈義町にある奈義町現代美術館(NagiMOCA)を舞台に、『東京ノート』を映画化してはどうかという提案だった。2005年から青年団の演出部に所属する深田にとって、平田の戯曲を映画にするのは、同名作を原作とした『さようなら』(2015年)以来となる。ただし今回は、『東京ノート』をそのままスクリーンへ移し替えるのではない。作品の精神と人物配置の一部を受け継ぎながら、その骨格を大胆に組み替え、まったく新たなオリジナルへと再構築している。こうして誕生したのが、ナギで暮らす彫刻家と、東京生まれの建築家という2人の女性を中心に紡がれる、ある春の物語である。
原案となった『東京ノート』は、2004年(作品が書かれた時期──初演の94年からすると近未来)の東京の美術館を舞台に、ヨーロッパで大きな戦争が起こっているという世界状況を遠景に置きながら、ロビーに集う人々の会話を描いた群像劇だった。それから30年以上。深田監督はその構造を、戦争がもはや戯曲上の仮想の前提ではなくなった現在へと移し替える。本作で描かれるのは2025年3月13日から21日まで。映画の序盤から、山あいの静かな町には自衛隊の訓練の音が響いてくる。実際、奈義町には自衛隊の駐屯地があり、地元住民との共存共栄をめぐる様子はドキュメンタリー映画『日本原 牛と人の大地』(2022年/監督:黒部俊介)などでも描かれている。そんな日常風景の中、テレビからはロシアによるウクライナへの攻撃激化を伝えるニュースが流れてくる。自然、生活、戦争。おそろしく遠くにあるはずのものと、すぐ隣にあるものが、映画の中で同じ空気を震わせている。

物語の中心にいるのは、ナギでひとり創作に打ち込んでいる彫刻家の寄子(松たか子)だ。畑仕事をし、牛を飼い、地元で絵画教室を開きながら、自らの彫刻を作り続けている。そんな寄子のもとへ、東京と台湾で建築家として活動してきた友梨(石橋静河)が数日間の休暇を取ってやってくる。友梨は、寄子の弟と別れた元妻。つまり2人はかつて義理の姉妹だった女性同士だ。若くして妻・早苗を亡くした寄子の幼なじみで町役場に勤める好浩(松山ケンイチ)、その息子・春樹(川口和空)と親友の圭太(藤原聖)らと交わりながら、友梨は少しずつナギの日常へと入り込んでいく。そして毎晩、寄子が制作する彫刻のモデルを務めるうち、彼女の内側に長く沈殿していた喪失に触れ、友梨自身もまた静かに変化していく。

「遠い。外国より遠い」。キャリーケースを引きずりながら東京からナギへやってくる友梨を見た瞬間、いかにも深田晃司の映画が始まった、という感触がある。振り返れば『歓待』(2010年)や『淵に立つ』、『海を駆ける』(2018年)、そして前作『恋愛裁判』に至るまで、深田作品はしばしば、すでに形成されている共同体に「外部」の人間が訪れ、その存在を触媒として内部に潜んでいた関係や感情が露出していく物語を描いてきた。「闖入者の映画」と定義する論評も多く出ている。ただし今回の友梨は、「闖入」という言葉から連想される暴力性をほとんど持たない。彼女は何かを破壊するのではなく、まず“見る”ためにやってくる。そして見られることで、ナギの人々もまた少しずつ自分自身を見ることになる。
興味深いのは、この都会からやってきた友梨に、深田監督自身の視線が濃く重なって見えることだ。東京を生活の基盤とし、建築という専門的な創作を仕事にし、よそ者としてナギにやってくる友梨。対する寄子は、土地に根を下ろし、生活と創作を切り離すことなく、ひたすら自分の手で彫刻を続けている。もし友梨に映画監督としての深田晃司の現在が投影されているなら、寄子は彼にとってひとつの理想的な芸術家像ではないか。プロフェッショナルとして社会の制度の中で作品を作る者と、土地に暮らしながら黙々と自己の表現を掘り出していく者。その2つの創作者像が向かい合う構図そのものが、この映画のもうひとつの肖像になっている。

『東京ノート』との関係も絶妙だ。『東京ノート』は、小津安二郎監督の『東京物語』(1953年)を下敷きに本歌取りのように書かれた作品である。年に一度、長姉が地方から上京し、その機会に東京でばらばらに暮らす兄弟姉妹が美術館のロビーに集い、顔を合わせる。そこには『東京物語』から受け継がれた、地方から東京へ家族がやってくるという移動のベクトルがある。『ナギダイアリー』はその向きを反転させる。東京から友梨が地方のナギへ向かうのだ。人物を単純に置き換えるのではなく、都市と地方、「迎える者」と「やってくる者」の位置関係そのものを裏返す。すなわち本作は『東京ノート』を介した“『東京物語』の孫”とも呼べるだろう。小津から平田へ、そして深田へ。家族や共同体の姿を、そこへやってきた者の視線によって捉え直すという変換を備えて、『東京物語』という偉大な原型が批評的に継承されている。
原作に出てきた「カメラ・オブスクーラ」──ピンホールカメラとも呼ぶ写真の原点となった光学装置が登場する美術館でのイベントの場面もあるが、またこの映画では“見る”という行為が決定的に重要になる。その中心に置かれたのが彫刻だ。当初の企画段階では、ジャック・リヴェット監督の『美しき諍い女』(1991年)のように、寄子は画家として設定されていたらしい。だが彫刻家となったことで、この映画には実に豊かな物質感が生まれた(彫刻は吉田愛美が担当)。絵画ならば、対象を見て平面へと写し取っていく。しかし彫刻では、木というすでに存在する物質を削り、その内部から立体的に形を掘り出していかなければならない。ノミを入れるたびに木片が落ち、何かが少しずつ失われることで、逆にひとつの姿が現れてくる。それはまるで人物たちの記憶や関係の奥から、本人でさえ簡単には言葉にできない感情を掘り出していく、この映画自体の方法のようでもある。

寄子が抱えている最も深いものも、喪失だ。彼女はセクシュアル・マイノリティであり、かつて幼なじみの女性・早苗に思いを寄せていた。その早苗はやがて好浩の妻となり、若くして亡くなった。失われた早苗は時折、寄子の夢の中に亡霊のように姿を現す。現在の風景の中に過去がふっと入り込み、生者と死者の境界がわずかに揺らぐ。ただし深田監督は寄子のセクシュアリティを映画の“問題”として過度には劇化しない。それは彼女という人間を形作る重要な一部でありながら、土地で働くこと、創作をすること、人を愛すること、過去を抱えて生きることと同じ地平に置かれている。
その線を別の世代で引き受けるのが、中学生の春樹と圭太だ。未分化な感情に包まれた彼らの関係もまた少しずつ輪郭を変え、やがて後半の鮮烈な展開につながっていく。映画は寄子が過去に抱えたものと少年たちが現在形で抱えるものを、短絡的に同一化することなく、異なる世代を流れるひとつの見えない水脈として並べてみせる。クライマックスは、それまで静かに積み重ねられてきた映画の時間が一挙に運動へと昇華されるような、胸の熱くなる解放感がある。

そこで思い出されるのが、寄子の印象的な言葉だ。友梨から強く見えると言われた彼女は、自分は強くないと否定したうえで、「孤独かもしれないけど、孤立はしてないってだけだと思う」と語る。この「孤独」と「孤立」の差異こそ、『ナギダイアリー』という映画を開く鍵なのではないか。
孤独であることと、誰からも切り離されていることは違う。寄子には彫刻があり、畑もあり、牛がいて、好浩や少年たちがいる。かつて愛した早苗の記憶さえ、彼女の現在から完全には消えていない。共同体とは必ずしも同じ価値観を共有する者たちの集団ではないし、理解とは他者のすべてを知ることでもない。むしろ人間には決してわかりきれない部分が残り続ける。その隔たりを消そうとせず、それでも隣にいること。それこそが、深田監督がこの映画で提示する共同体の最小単位なのだろう。
ここには平田オリザから深田監督が受け継いできた演劇的な思想も色濃く息づいている。大事件によって人物を説明するのではなく、複数の人間が同じ空間に存在し、微妙にすれ違う会話を重ねることで、それぞれが抱えている事情と、その背後にある社会を浮かび上がらせていく。だからこそ世界情勢も大仰な政治的メッセージとして挿入されるのではない。テレビではウクライナで戦争が続いている。一方、ナギの空には自衛隊の訓練音が響く。そのすぐ下で人々は畑を耕し、牛を世話し、恋をし、悩み、彫刻を作っている。遠くの戦争と目の前の日常は別々の世界に存在しているわけではない。それらは同時に、このひとつの世界で起こっている。

本作で大きな役割を担うのが「音」だ。全編にわたって劇伴を排し、耳に届くのは基本的にその場所に存在している現実音だけ。風、自然、人の声、作業の気配、そして彫刻を削るノミの音。それらと全く同じ音響空間へ、自衛隊の訓練音やテレビから流れる戦争のニュースも入ってくる。音楽の貼り付けによって観客の感情にあらかじめ方向を与えることをせず、何を感じるかをこちら側へ委ねる。その禁欲的なサウンドスケープの設計がかえって、ナギという土地の静けさの内側に無数の音が存在していることを際立たせる。
そして何より、この映画の美しさは、人間を簡単には理解できないものとして最後まで残すところにある。友梨は寄子のもとを訪れ、彼女を知ろうとする。しかしそこで発見するのは、知っていたはずの人間にも知らない部分があるという、ごく当たり前で、だからこそ恐ろしい事実だ。同時に彼女自身も、寄子から「見られる」側になる。彫刻のモデルになるとは、自分の身体を他者の視線に委ねることにほかならない。見る者と見られる者。その関係は制作の日々を通して少しずつ反転し、どこか互いが互いを映す鏡のようにもなっていく。

それは映画という表現そのものにも重なる。彫刻にもモデル本人との間に埋められない距離が残るように、映画の中の人間にも必ず不可知の領域が残る。その距離を欠陥と考えるのではなく、他者を他者のまま愛するための余白として残す。ここに『ナギダイアリー』の倫理がある。理解しきれなくてもいい。答えを出さなくてもいい。ただ途中で目を逸らさず、そこにいる人間を最後まで見続けること。
思えば深田監督の前作『恋愛裁判』もまた、アイドル業界というひとつの共同体を舞台に、社会や制度のまなざしによって規定されそうになる女性が、別の女性との連帯へとたどり着く映画だった。その意味で『恋愛裁判』と『ナギダイアリー』は、一見まるで異なる物語でありながら、意外なほど近い場所に立つワンセット的な2本なのかもしれない(撮影は共に四宮秀俊)。外からやってきた者によって共同体が揺らぐという構造も、今回は誰かが破壊されるためではなく、それまで見えていなかった他者を互いに見つけ直すために使われる。深田作品でおなじみの「ビンタ」も、この2本にはない。その変化が、本作をこれまでの深田作品よりもずっと柔らかく、優しく、温かな映画にしている。
松たか子や石橋静河をはじめとする役者陣の素晴らしさも特筆すべきだ。同じカンヌ国際映画祭コンペティションで競い合った濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』(2026年)とは、日記形式や二人の女性の交流など、いくつもの共通点を持つ。それだけに各々の作家性の違いがいっそう鮮やかに浮かび上がる傑作となった。なお、『ナギダイアリー』のエンディングテーマは、台湾の人気シンガーソングライター、イーノ・チェンが担当。作詞は深田監督自身が手がけている。
『ナギダイアリー』
監督・脚本/深田晃司
出演/松たか子、石橋静河、松山ケンイチ
9月25日(金)より、新宿ピカデリー、ユーロスペース ほか全国公開
https://starsands.com/nagidiary/
配給/スターサンズ
© 2026 ナギダイアリー・パートナーズ (スターサンズ/八朔ラボ/ワンダーストラック) / Survivance / Momo Film Co.
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Text:Naoto Mori Edit:Sayaka Ito
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