カンヌを制した異色サスペンス! イランの映画作家ジャファル・パナヒ監督作『シンプル・アクシデント/偶然』 | Numero TOKYO
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カンヌを制した異色サスペンス! イランの映画作家ジャファル・パナヒ監督作『シンプル・アクシデント/偶然』

イランを代表する映画作家ジャファル・パナヒ監督が、2025年に発表した最新作『シンプル・アクシデント/偶然』。本作は第78回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞し、その表現の強度と独自性があらためて世界の注目を集めることとなった。これまでパナヒは『チャドルで生きる』(2000年)で第57回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞、『人生タクシー』(2015年)で第65回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞しており、今回のカンヌ受賞によって史上4人目となる“世界三大映画祭すべての最高賞受賞者”となった。ちなみに本作はフランス代表として(フランス・イラン・ルクセンブルク合作)、第98回アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートを果たしている。

監督の投獄経験をもとに放つ、イラン社会の闇をえぐるブラック寓話の最高到達点

反体制的な活動を理由に映画制作を禁じられ、二度の投獄を経験しながらも創作を続けてきたパナヒ。『シンプル・アクシデント/偶然』の着想源は、彼自身の投獄経験と、同房で出会った人々のリアルな声だ。しかしその語り口は重苦しさとは無縁。むしろユーモラスで、スリリングで、寓話的ですらある。政治スリラー、ブラックコメディ、ロードムービーが奇妙に混ざり合い、唯一無二の映画体験を生み出している。

物語は“音”から始まる。主人公ワヒド(ワヒド・モバシェリ)は、かつて政治犯として不当に投獄され、凄惨な拷問を受けた男。ある日、彼は自分が働く工房で、義足を引きずる奇妙な“音”を耳にする。それは刑務所に収監されていたとき、執拗に拷問を加えてきたエクバルという看守を思い起こさせた。この看守はシリア内戦で片脚を失った男で、囚人仲間の間では“義足”のあだ名で恐れられていた。

この“音”により、かつて自分を痛めつけた憎き看守と思しき人物と偶然遭遇したと思い込むワヒド。彼はその中年男(エブラヒム・アジジ)を衝動的に拘束して荒野へ連れ出す。しかし男のIDカードに記された名前は、恨み続けてきた相手とは違う。男も「人違いだ」と訴える。投獄中は目隠しをされていたため、ワヒドは看守の顔を知らない──では、この男は本当に“あの男”なのか?

ここから映画は、サスペンスからブラックコメディへ、さらに寓話へと滑らかに変貌する。ワヒドは確証を得るため、同じ看守に拷問された友人たちを訪ね歩く。義足の音、匂い、曖昧な記憶……。彼らが頼りにするのは、あまりにも不確かな手がかりばかりだ。アルフレッド・ヒッチコック監督の『間違えられた男』(1956年)や『ハリーの災難』(1955年)などを思わせるオフビートなユーモアが、緊張と笑いを交互に呼び込む。

パナヒは、バンの荷室、砂漠、病院といった空間を悪夢的なトーンでつなぎ合わせ、イラン社会そのものを巨大な牢獄のように描き出す。ワヒドたちの旅は、国家の暴力がどのように人々の記憶を侵食し、復讐の連鎖を生み出すのかを浮かび上がらせるロードムービーでもある。劇中で言及されるサミュエル・ベケットの不条理劇『ゴドーを待ちながら』のように、彼らは確証のない“何か”を待ち続ける存在でもある。

しかしパナヒが見つめるのは復讐の成否ではない。抑圧の記憶とどう向き合い、生き延びるか──その普遍的な問いだ。本作はイランの現実を世界に向けて語り直す試みでもあり、暴力の連鎖をめぐる政治的寓話としての圧倒的な強度を獲得している。

“偶然”という小さな綻びから、社会の腐敗と抑圧が露わになる構造は、まさにパナヒの真骨頂。ユーモアと恐怖、怒りと諦念が複雑に絡み合いながら、103分の物語は一気に駆け抜ける。 『シンプル・アクシデント/偶然』は、混迷した現代世界の映画界における最重要作のひとつであり、パナヒのキャリアにおける新たな頂点でもあるといえるだろう。

『シンプル・アクシデント/偶然』

監督・脚本/ジャファル・パナヒ
出演/ワヒド・モバシェリ、マルヤム・アフシャリ、エブラヒム・アジジ、ハディス・パクバテン、マジッド・パナヒ、モハマッド・アリ・エリヤ
全国公開中
https://simpleaccident.com/

©LesFilmsPelleas
配給:セテラ・インターナショナル

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Text:Naoto Mori Edit:Sayaka Ito

Profile

森 直人 Naoto Mori 映画評論家、ライター。著書に『シネマ・ガレージ~廃墟のなかの子供たち~』(フィルムアート社)、編著に『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)ほか。『週刊文春』『朝日新聞』『TV Bros.』『シネマトゥデイ』などでも定期的に執筆中。 YouTube配信番組『活弁シネマ倶楽部』でMC担当中。
 

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