穏やかな色彩と曖昧な輪郭の人物像には、独特の静けさが漂う。自身の祖母の死にまつわる経験から「ひとが他者へ向ける親密さとそのまなざしのあり方」をテーマとする吉田紳平。「過去に存在した人々を包んでいた空気や、自分が理由もなく惹かれるものの意味を問いかける」という想いから描かれる絵は、鑑賞者を見知らぬ時空へと誘う。絵画に秘められた物語に想いを馳せ、創作の舞台裏を覗きに彼のアトリエを訪ねた。

絵を描く動機、今際の祖母との見えない対話
──絵を描きはじめたきっかけはありますか。
「母はデザイン学校に通っていて絵が好きだったこともあり、幼い頃から一緒にスケッチなどをしていました。家に母の描いたムスカリの小さな絵があって、それがとても好きだったのを覚えています。それで高校も大学も美術方面に進みました」
──描くことは身近な行為だったのですね。
「絵を描くのは楽しくて自然なことでした。ただ、大学生になって自分の世界が広がりはじめた頃、自分にとって描くことに目的や理由はなく、描きたいものがないことに気づいて悩みました。そんな時、祖母の臨終に立ち合い、独特な体験をすることでテーマを見つけたように思います」

左:「My daughter」91×91cm ,oil on canvas,2025 右:「hand」22.7×22.7cm, oil on canvas,2025
──どんな独特の体験をしたのでしょうか。
「祖母は肺がんに罹患していて、今夜が峠という日を迎えたのですが、集まった身内の中で、見守る人と葬儀の準備をする人に分かれ、僕は見守る方に入りました。あの時、祖母の心臓は動いていて、聴覚などは働いているはずなのですが、まるで肉体の塊を見ているような気持ちになりました。呼吸の音を聞きながら何時間も経った頃、ふと祖母の首や唇が動きました。その時、『おばあちゃん』と呼びかけると、瞼を開いて視線をこちらに向けてきたんです。そのまま数時間後に息を引き取りました」

「祖母が目を開いた時、嬉しいという気持ちと、少し怖いような、理解できない戸惑いみたいなものが残りました。言葉で言い表せない『得体の知れなさ』があったのです。祖母は無表情で無言でしたし、どのくらい見えていたのか、何を考えていたのかは分かりません。ただ、祖母が亡くなった時、自分の中で何かが切り替わって、もっと知りたい、描きたい、という思いから『ひとが他者へ向ける親密さとそのまなざしのあり方』を問うようになったのです。それがポートレートシリーズに着手するきっかけとなりました。対象は祖母だけのものというよりは、親密な関係を持った人同士のまなざしと向き合っていて、記憶の断片みたいなものもイメージにあるので、色彩は淡く、輪郭はぼやけています。そうすることで誰かと誰かの間に流れる親密さや記憶の曖昧さを追求しようと思っています」
家族が過ごした光景 過去の時間に生きた人々を取り巻く空気を伝えたい

──絵はある人の視界で、その視点人物と描かれた人の距離感は、いまわの際にあるお婆様と吉田さんの距離感と重なっているということですね。画題は実在の方なのでしょうか?
「ライフワークとしている題材があります。ドイツのハンブルグのアーティストインレジデンスに参加していた時、フリーマーケットで古いファミリーアルバムを見つけたことがきっかけで、その家族を描くようになったのです。写っているのは一つの家に住んでいる家族で、お父さんとお母さん、それに子どもたちがいる家庭です。僕は彼らについて裏設定を考えて人物像を膨らませ、父親の目に映る家族の様子を描いています。一つの家族の人生や歴史を作品にしたいと思って制作しています」
──写っていたのは実在の家族だと思いますが、その先の設定は吉田さんが考えたということですね。
「はい、彼らの物語は既に20~30年分くらい考えています。このシリーズを初めてまだ3年くらいですので、この先どうなるか分かりませんが、続けていきたいと思っています」

──まるで映画監督が家族の歴史を撮っているようです。
「映画をつくりたいという感覚で描いている気がします。時系列で発表していくというよりは、歴史を決めてランダムに制作しようと思っています。実際の出来事や、何を考えていたのかなどは分からないのですが、家族をロングスパンで捉え、過去の時間に生きた彼らを取り巻く空気を捉えたいのです。描画の際は別の映像などを手掛かりにすることもあって、動きを細分化して採用することもあります。目的がある行動をしている時より、何かの繋ぎの動作をしている時など、取るに足らない瞬間を描くのが好きです」
──絵を描く動機やスタイルは人それぞれですが、ユニークですね。
「自分にとって身近だから絵画という手段をとっているのですが、今やっていることが果たして絵画なのか、どういう役割を果たすのかも分かりません。描きたいことは、絵の中の世界というよりも、モチーフとなる人物やものを見つめている人物、つまり家族の中での父親のまなざし(描かれていないもう一人の存在)が、僕の絵を見ている人のまなざしと重なることです」


──作品についてお伺いします。『Good night, my father』はどういう状況なのでしょうか?
「岐阜県・美濃加茂のギャラリークロッシングで開催した展覧会『Absence of bedroom』でメインになった作品で、父親が寝室に入り、『おやすみ』の挨拶をした時に振り返った娘の顔を描いています。例えば『Silence is in your hands』は家族の息子の後ろ姿だったりします。僕は絵の構成を描く前から決めていて、正面の顔は少なく、後ろ姿や少し俯いた横顔などを描くことが多いです。『Good night, my father』のシチュエーションと同じように、“誰かが誰かへ向けたさりげないまなざし”を意識した視点にしているからです。また、一枚一枚の絵を空間に並べた時にそれぞれがどういう役割を果たすのか考えて描き始めたりもしますね」
──同じ人を描くこともありますか。
「はい、『Good night, my father』に登場した時、娘はまだ十代でしたが、それから十年以上経って、もう家を出るかもしれないというタイミングの絵も描いています。日常のなにげない動作の一コマを捉える父親のまなざしの尊さを体験していただきたいですね。父親の視点で対象を見ている以上、絵には父親が出てくることはありませんし、家族全員が揃うことはありませんので、観る方で父親の人物像をつくっていただきたいのです。僕の展覧会を全て見ていただくと、家族の物語が立ち上がり、より想像できるようになると思います」

──かつて遠い過去にいた家族の存在やその父親による親密なまなざしと、吉田さんのお婆様との極めてプライベートな距離感を重ねて作品と向き合っているんですね。どんな技法で表現しているのでしょう?
「油彩は最初にモノトーンだけで描き、光と影を意識して絵に立体感を出す『グリザイユ』の技法を使って描いています。通常のグリザイユは色を薄めて透けさせるのですが、僕は色を少しだけ載せて乾いた布で拭い取ったりブラシで擦ったりして質感を出しています。色彩や輪郭の表現は、人と人との間に生まれる親密さや曖昧な記憶の在り方をイメージに近づけるように心がけていますね」
左:家族の子どもたちが幼い頃使っていたティースプーン。右:将来、陶芸家になる娘が晩年に作ったという設定の陶器。
──スケッチなどは描くのでしょうか。
「昔からスケッチやドローイングやデッサンなどをする習慣はありませんでした。美術の教育だと大量のデッサンを描かなければいけないのですが、僕のデッサンはかなり少ないですね。描くための段取りよりも、画題の物語の段取りの方が大切だと思ってるので、展覧会でお見せするためのものではないのですが、物語に関連する小道具を揃えたりしています。例えば、家族の子どもたちが幼い頃に使っていたティースプーンなど、古い小道具はいろいろな場所で少しずつ見つけてきます」

──とてもかわいらしいアイデアですね。
「物語のために家の模型をつくったりもしますね。あと、僕の母親が絵を描いていたことをモデルにして、絵の中の家族の母親も絵を描くという設定です。家族は鳥を飼っているのですが、このインコやカナリアの小さな水彩画は、家族の母親が描いたことにしています」
「分からなさ」を作品にする

──吉田さんは、油彩以外のインスタレーションもつくっていますね。
「祖父にまつわる手紙の作品もあります。祖父は僕をかわいがってくれて、いろいろな場所につれていってくれました。そのうち体調が悪くなって外出できなくなり、手紙でやりとりするようになりました。やがて手紙の字も読みづらくなり、最期の手紙はほとんど読めませんでした。ただ、僕のことを思って書いてくれた言葉、祖父にしか書けない言葉、でも僕には読めない言葉が綴られている、その分からない手紙が一番考えさせられました」
──分からない、理解できないからこそ考えさせられたんですね。
「『分からなさ』に触れた時、作品をつくりたいという衝動が生まれるように思います。手紙を作品にしようと考えた時に、書くことや読むことよりも、もっと別の方法でつくりたいと思ったのです。結果、箱の中に飛鳥時代の石やドイツの蚤の市で買った糸巻など、滞在先にあったもので、理由はないけれど惹かれるものを集めました。色や配置なども、自分の中で『そうしたい』と思ったものをつくっています。過去の人を包んでいた空気や理由もなく拾いたくなる石、撮りたくなる風景など、『引き止められている感じ』といいますか、『後ろ髪をひかれるもの』を集めて作品にしました」

──とても美しいです。
「突飛な考えかもしれませんが、もしも自分が死者だったら、自分の大切な人のところに行って何かしらアクションを起こして、その人を引き留めようとするんだと思います。きっと、ちょっと立ち止まって目の前のきれいな景色に気づかせるくらいの、ほんとうにささやかなことしか叶わないだろうけど、そのときその人の心が動く瞬間に僕がそばにいたいのです。伝えたいことがたくさんあっても、そうやって寄り添うくらいしかできないと思っています。もしかして死者がそんなふうに目には見えない別の言語として私たちに呼びかけているのだとしたら、と想像をして、地上に散りばめられた欠片の一つ一つを寄せ集めて弁当箱みたいに詰めて、一通の手紙のようなものができたら美しいなと思ってこれらはつくりました」

──この丸い箱も作品ですか。
「この作品は、入れ物の丸い木箱も作品の一部で、観る人に開けてもらうスタイルです。中身はタンポポの綿毛をドライにしたものですが、祖父への手紙と同じ、言葉にならないものを作品にしていますね。ほかにも知り合いのアーティストと往復書簡を行ったのですが、その方は日本に滞在していた時に撮った写真やラベンダーが入った箱の手紙を送ってくれました。僕は水彩のポートレートと鎌倉の葉山で拾ったものなどを詰めた箱を手紙にしました」
アートとは「世界を知る方法」

──吉田さんにとってアートとは?
「美術館に行ったり鑑賞したりするのは好きですし、絵画の面白さを語ることはできると思うのですが、僕自身がアートに憧れがあるかと言えばそうでもなくて、アートで世界を変えたいと願ったり、大きな役割などを感じているわけではありません。僕にとってアートは世界を知る方法で、アートを介して伝えたいことがあるのだと思っています」

左:「Hand」22.7×22.7cm, 2025, Oil on canvas 右: 「He is inside the room」116.7×91cm, 2025, Oil on canvas
──描くことの動機や画題は緩やかに繋がっているようにも思います。
「表現したいという想いは、祖母が亡くなった時の距離感を描き続けたいという気持ちや、家族のシリーズの、過去にはいたけれど今はいなくなってしまった人を包んでいた空気や、過去の人々の間に漂う親密さ、自分が理由もなく惹かれるものの意味を問いかけるという気持ちに由来しています。そういったものを伝えることで観る人に感動してもらう、心を震わせることができたら嬉しいです。描くことで過去の人々が世界から忘れられずに呼び戻され、誰かにもう一度知られるならば、それが僕の生まれてきた意味でもあると思っています」
Photos:Eri Kawamura Interview&Text:Akiko Nakano Edit:Masumi Sasaki






