編集部が選ぶ今月の一冊|シャリー・ティシュマン著『スロー・ルッキング よく見るためのレッスン』
あまたある新刊本の中からヌメロ・トウキョウがとっておきをご紹介。今月は、ハーバード大学プロジェクト・ゼロ主任研究員の著者が“ゆっくり見ること”の効用を論じ、実践的な提案をしてくれる一冊を山口博之(good and son)がレビュー。
『スロー・ルッキング よく見るためのレッスン』
著者/シャリー・ティシュマン 訳者/北垣憲仁・新藤浩伸
価格/¥4,620 発行/東京大学出版会
時間をかけて理解することの価値
作家のプルーストは、「真の発見とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ」といった。
スピード感、テンポ感があるメディアやコンテンツが好まれる時代。飽きられたらスキップされ、チャンネルを変えられる。流行りもあっという間に移り変わり、自分の目を更新することよりも、こちらを驚かせ、楽しませてくれる新たな刺激を日々求めている。
そんな時代であれば、「ゆっくり見ること=スロー・ルッキング」が研究される意義も、私たちが読む意味もよりはっきりしてくる。と言いながらもここで提唱されているような「ゆっくり見る」ことを、他の時代の人がみんなやってこられたわけでもなく、今の時代の人を責めるものでもない。早く見ること、一瞬で認知し判断できることも能力のひとつでもある。
しかし、それに慣れ過ぎてしまうと、時間をかけて何かを咀嚼することは面倒でつまらないもので、非効率で無駄なこと、ということになってしまう。それはもったいないし、食レポが「あまい」「口のなかで溶ける」という感想に集約されてしまうように、あらゆるものが味わう頭を甘やかすものばかりになってしまう。
それではいかにして“新しい目”で世界を見ることができるのか。見ているものを網羅的に記録しリストをを作る「インベントリー」という方法や、色や形、線などのカテゴリーを使って視線を誘導すること、尺度と視野を調整すること、相似や差異を見出すよう並置することなど、著者はゆっくり見るための具体的な方法を提示しながら、スロー・ルッキングの教育的な意味と可能性を示していく。
この本のおもしろさは、そうした手法を使いながら、ビジネスなどで頻繁に推奨される批判的思考や創造的思考といった耳馴染みのいいところに帰着しないところにある。そうした課題解決志向への有用性を否定はしないが、「スロー・ルッキングは、現時点での物事の複雑さを理解することを優先し、判断を先延ばしにすることに重点を置いている」とするのだ。
すぐに判断するのではなく、留保し、何があるのかをありのまま見つめ、記述し、描写すること。複雑なものを単純化してわかった気になるのではなく、時間をかけてもいいからものやシステム、ものごとの関係の複雑さを複雑なものとして理解すること。「見れば見るほど見えてくる」と著者はスロー・ルッキングの価値をまとめる。
何かに役立つという結果や目的をそもそも想定するのではなく、世界をゆっくり、しっかりと見ることができた先には、ゆっくり、じっくりと世界や人、情報と向き合える社会があるのではないか。流行と変化の速度の象徴ともいえるファッションは言わずもがな、速度と分断の時代において丁寧に観察することを忘れずにいるためにも。
Text:Hiroyuki Yamaguchi Edit:Sayaka Ito
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