俵万智インタビュー「言葉への飽くなき興味から生まれた『生きる言葉』」
旬な俳優、アーティストやクリエイターが登場し、「ONとOFF」をテーマに自身のクリエイションについて語る連載「Talks」。vol.126は歌人の俵万智にインタビュー。
280万部を誇る大ヒット作『サラダ記念日』以来、短歌やエッセイなど「言葉」の第一線で活躍してきた俵が、言葉のつかい方を考察した新書『生きる言葉』を今年4月に上梓。SNSの誕生により、誰もが世界に発信できる時代になったが、だからこそ使いようによってはネガティブにも働くやっかいな「言葉」には悩まされるもの。そんな言葉の使い方をいきいきと解説した本書は、発売するや否やたちまち話題に。俵にあらためて本書が生まれた経緯や言葉の魅力、またオフの過ごし方についてまでを聞いた。

──俵さんの著書といえば歌集やエッセイ集のイメージが強かったのですが、論考作品である『生きる言葉』はどのような経緯で誕生したのでしょうか?
「そもそもは“俵万智の生き方”みたいなテーマで何回かに分けてインタビューを受けて、そこに私が手を入れるというかたちで本をつくってみませんか、というご提案が新書の編集部の方からあって。ゲラ(校正刷り)になって手を入れているときに言葉についての考えがどんどん膨らんで、いろいろと書きたいことが出てきたんです。あと生き方とか、私がどうしたこうしたという話は『そんなの読んで面白い?』という感じがしてきて。そういう作業の中で『いま自分は言葉について考えたり書いたりしたいんだな』ということにやっと気づいて。それで『すみません、仕切り直してもらって一から書いても良いでしょうか?』とお願いをして、また新たに本づくりが始まったという感じでした」
──言葉についての一冊にしようと設定されたのは俵さんだったのですか?
「そうですね。もう本当に言葉について、いまいろいろと感じることとか、書きたいことがどんどん出てきたので、どんどん書いていきました。とにかく自分の日常の中で言葉に対して引っかかることがあったら『あ、これは書いてみたい』と本当に好きに原稿を書いて。ある程度まとまったら編集部へ送り、感想を聞いたりしながらつくったのですが、すごく楽しかったです」
──本作はまず“コミュニケーション”についての章から始まりますが、人と人とがとるコミュニケーションへの興味は、幼い頃からあったのでしょうか?
「そもそも言葉への興味というのが先にあったかもしれないです。やっぱり言葉で人と人というのはつながるものだから。あと、全く人見知りしないし、転校生になるときとかめちゃくちゃワクワクしていましたね。『知らない人のところに行くのが大好き!』みたいな」

──言葉で人と人がつながることを感じたのも幼い頃ですか?
「その一番は、初めて転校生になったときですかね。大阪生まれの大阪育ちだったのですが、14歳のときに福井へ転校して。それまで自分が大阪弁をしゃべっていることすら気づいてなかったんですけれども、福井に行ったらすごい大阪弁をみんなが笑うっていうかな。英語の時間でさえ先生が『関西臭い英語だ』とか言ってみんなに笑われて、『なにぃ? 私、英語得意なはずなのに!』とか思ったりもして。
でもそこで福井弁を覚えるとみんな喜ぶし、福井弁を巧みに操るとみんなが仲良くしてくれるというのは肌で感じたことだったから、やっぱり言葉が人と人とを結びつける最初の一歩だなというのは、その経験が大きかったと思いますね」
──『生きる言葉』の中では日常の中にSNSがある現代における言葉のあり方について書かれていましたが、過去に俵さんは〈匿名は仮面にあらず名を伏せて人は本音を語りはじめる〉(『プーさんの鼻』より)や、〈クッキーのように焼かれている心みんな「いいね」に型抜きされて〉(『未来のサイズ』より)といった歌も詠まれています。SNSなどの登場によって言葉の使われ方が変わってきたのを俵さんはいつ頃から感じられはじめていましたか?
「『プーさんの鼻』は20年前の歌集になるんですけれど、その頃は『掲示板』とかいってね、同じテーマに関心のある人がネット上に集まってきて匿名で話し合うみたいなものがちょこちょこ出始めた頃で。匿名って自分を隠すものだと思っていたのですが、実際にそういった掲示板をのぞきに行ってみると、むしろ普段のほうが仮面で、そこでは仮面を脱ぎ捨てて話し合っているのをすごく感じ、そこから生まれた歌でした。
もうひとつの歌は、一人ひとりが日常の中で“いいな”と思うことはその人固有のものなのに、SNSで“いいね”という言葉が数値化されていったり、数だけで測られていったりするというのが、ちょっともったいない残念な光景のようにも私には見えて。言葉って本当は一人ひとりが心から発しているはずなのに、大量生産のクッキーに見えたという感じですかね。そうやって自分なりに、日常においてSNSなどに接する中で感じた言葉というのは短歌にしてきた感覚はあります」
──『生きる言葉』の中では言葉を発する前に一呼吸置くことの大切さについても書かれていましたが、一呼吸置こうと思ってもなかなか置けない人にアドバイスをするなら何になりますか?
「言葉って自分から手放すまでがすごく楽しいんですよ。SNSだと取り消しはできるけど、一回人に伝わってしまったら言葉は相手のものになってしまうから、言葉を手放すまでが言葉を発することの醍醐味というか楽しみなので、そこを楽しんだほうがいいと思うんです。そのほうが、言葉が手放された後も楽しめるというか。
例えばSNSに投稿しようと思ったとき、『文末を少し変えたらどうかな?』とか、『この言葉は本当に自分の気持ちにぴったりかな?』とか、『いや、こんな風に受け取る人もいるんじゃないかな?』とか、あれこれ考える時間というのはもちろん無駄ではないですし、すごく楽しいと思うし、長く時間をかけて投稿したものというのは、その後の受け取られ方を見ていたりしても、より深く楽しめると思うんです。それがうまくいかなかったときの悔しさも大きいし、うまくいったときの喜びも大きいから。
言葉を発するときにはそういうことを味わって楽しもうと考えると、自然と一呼吸も二呼吸も置くようになります。その時間の豊かさを実感できれば、どんどん言葉を丁寧に扱っていけるようになるし、そうすると言葉のほうも自分に寄り添ってくれるようになって、言葉との関係もすごく良くなっていくような気がするんですよね」
──言葉を受け取る相手に対して想像力を働かせる人も減っているように個人的には思うのですが、俵さんはいかがですか?
「やっぱり忙しいし言葉があふれかえっているから、想像力を働かせるタイミングや余裕を奪われがち、というのはあると思います。でも、それは本当にもったいないというか、それこそ受け取る側になった場合でも背景にあることを考えたり味わったり、自分に届くまでの言葉の軌跡をじっくり考えるということは言葉を楽しむということなので、すごく豊かなことであるはずなんですよね。
額面通りどころか、言葉をファースト・インプレッションで受け取ってしまうだけというのは、実は言葉の一面しか味わっていないこと。こんなに簡単に言葉が届けられるというのは、すごく便利なことだけれども、そのために雑になっているとしたら、すごくもったいないなと思いますね」
言葉が氾濫する時代だからこそ、触れてほしい短歌

──そういった受け取った言葉の多面性を味わえるようになるために、ひとつの歌でたくさんの解釈が取れる短歌に触れることは有効ですか?
「短歌はね、本当におすすめですよ。飴を口の中で転がすようにゆっくりと味わっていると、だんだん香りや味わいが広がっていきますよね? 本当に短歌って飴のようなものだと思うんですけれども、それをガリガリ噛んだり丸呑みしていたりしたら何の味もわからないっていうかな。何だったら口にも入れずにチラ見しただけで『あぁ、あの飴ね』って思ったりするのは本当にもったいないと思います」
──いま短歌を読む人はすごく多いと思いますが、実際につくっている人は読者に比べるとまだ少ないと思います。どういうタイミングや、どういう感情を受け取ったときに短歌をつくり始めるのが良いのでしょう?
「いや、むしろ漠然と待っているとやってこないので、もうとりあえずつくることを決めたほうがいいですね。『来週までに一首つくってくださいね』と、もしここで宿題を出されたら、たぶんこの一週間の心の持ち方って変わると思うんですよ。私自身も歌をつくっているからこそ『あ、ここで立ち止まれたな』ということがすごくあるので。なので、もう先に歌をつくる自分になっちゃう。そうするとアンテナも立つし、立ち止まる時間も生まれるっていうかな。
でもいま意外だったのは、読者は増えているけどつくる人はまだ少ないっていうのはすごく新鮮で。そこまで読者が増えているんだなって思いました。短歌のような短詩型って、つくる人のほうが多いように言われていて。みんなつくりたいけど勉強しない、カラオケみたいな感じだって10年くらい前にはすごく言われていたんです。でも、いまはそうやって読む人も増えているというのは、すごくいいことだと思いました」
──実際に本屋さんへ行くと、たいてい詩と短歌と俳句のコーナーが一緒にありますが、棚の割合を一番多く占めているのはやっぱり短歌です。
「それ、驚異的なことですよ。かつては韻文と散文に分ければ、小説といった散文がもちろん圧倒的で。私が学生の頃は『何か詩を書こう』というような人は、だいたい現代詩にいっていましたし、通っていた大学には短歌会もなく、短歌ってめちゃくちゃ隅っこの存在だったんですよ。いまはかなりの大学で短歌会はあるし、インカレの短歌サークルも盛んだし、むしろ若い人は現代詩よりも短歌をつくっていますものね。20〜30年前からしたら考えられないですよ、すごく隔世の感があります」
──こうも短歌に興味を持つ人が増えたのはなぜだと考えますか?
「SNSと相性が良かったというのは、ひとつあると思います。SNSを使って短い言葉で発信することにみんなが日頃からトレーニングされているから『短歌をつくってみようかな』というときにハードルが低くなっているということと、あとは発表の場所としてSNSがあるということですよね。改行して20〜30行になる現代詩だとなかなか読まれづらいけど、短歌だったら1行か2行で届けられる。その場所との相性もすごく良かったのだと思います。
私自身は、その短さに慣れてきたということと、発表の場所があるということが間違いなく大きいと考えているのですが、一方で最近『スマホ時代の哲学』(谷川嘉浩/著 ディスカヴァー携書)や『庭の話』(宇野常寛/著 講談社)といった哲学関係の本をいくつか読んだときに感じたのは、SNSがいろいろとある時代に、とにかくそれから距離を置いて自分の言葉と向き合う時間というのはすごく大事なんだなと。哲学に関わる人たちが異口同音に言っているというのが新鮮でした。
こんなに言葉が氾濫している中で、例えば短歌をつくるというような、SNSとは一回切れて、自分の言葉と向き合う時間というのがすごく個人にとって大事なのかなって。物心ついた頃からSNSがあるような若い人たちは、そういうことを感じているのかなって、ちょっと希望を感じつつ、SNSがあるから短歌が広まっただけじゃなくて、 SNSがあるからこそ、そこから距離を取る時間としても短歌が機能しているのかな、ということを最近思ったりもしました」
言葉からドラマまで、尽きぬ興味と好奇心

──息子さんが大学生になられて、俵さんご自身のライフステージも変わられたと思うのですが、年を重ねることによって創作に変化は生じるものですか?
「歌のつくり方とかは変わってないのですけれども、やっぱりその年齢によって見える景色が違うっていうのはあるので、自然に変化はしているんじゃないかなと思いますね」
──俵さんの〈不純物沈殿したるビーカーの上澄みの恋、六十代は〉(『アボカドの種』より)という恋の歌が、個人的にはとても印象深くて。歌集『チョコレート革命』のあとがきで「恋の歌は、死ぬまで詠みつづけたい」と書かれていましたが、恋の楽しみやそれによって詠まれる歌も変わってきているでしょうか?
「その歌は、やっぱりすごい実感で。若いときの恋愛って、純粋な人と人として好きっていうこと以外にも、それこそ人生のライフプランや結婚とかがチラついたり、子どもを産むのかとか性的なことだったり、純粋な“好き”に加えていろんな要素がごちゃ混ぜになって撹拌されている中で人と人との関係が作られていくっていう感じだと思うんです。それはそれですごく素敵だし楽しいことだけれど、一通りそういうことを過ぎた後だと今度は逆にいろんなごちゃごちゃした要素がとりあえず沈殿して、今度また逆に人として『本当にこの人が好きかどうか?』で、その人と一緒に時間を過ごしたいか考えるようになってくるなと思ったのが、その歌を作ったきっかけですね。
でも、そのごちゃごちゃしている、撹拌されている状態もまたそれはそれで羨ましいというか。若い人たちとか見ていると“いいな”って思います」
──『生きる言葉』の中ではお好きなドラマ作品についても、いろいろと書かれていましたが、俵さんにとってドラマ鑑賞の醍醐味とは何でしょうか?
「自分と違う人生を味わえるというかな。小説を読むとかもそうだと思うんですけれども、全然違う人生を疑似体験でき、そこで味わったものが翻って自分の日常に影響を及ぼしてくれることとかですかね。まあ単にミーハーだからかっこいい俳優さんが出ていると、それだけでも嬉しいです。最近は韓国のイ・ジェフンという俳優がめちゃくちゃかっこいいことを見つけてしまって。『復讐代行人 ~模範タクシー〜』が出世作なんですけど、そのシーズン1と2を観た後に彼が出ている作品を追いかけています。
いまはイ・ジェフンに移動しているんですけど、気に入った俳優さんができるとその方の過去の出演作品をずるずると観ています。『愛の不時着』にハマったらとりあえずヒョンビンの出演作品を、『梨泰院クラス』にハマった後はパク・ソジュンの作品を、『ヴィンチェンツォ』の後はソン・ジュンギの作品をと、気に入った俳優さんの出演作品をほぼ観ていますね」
──韓国ドラマがお好きなんですね。
「もともと舞台が好きなのですが、コロナ禍のときにずっと家にいないといけないので初めてNetflixに加入して『愛の不時着』を観て、そのままハマっている感じです。そうは言っても朝ドラ『あんぱん』も観ていますし、最近は『サンクチュアリ -聖域-』や『地面師たち』とか、日本ドラマの怖いものも観ていますね。そこから綾野剛がいいなと思って、彼が出ていた『MIU404』とかもずっと観たりもしていて」
──お忙しいのにそんな時間、一体どこに?!
「別腹なんですよね。私も“忙しいのになんでこんなに観ているんだろう?”って(笑)」
──歌集によっては旅先を詠んだ歌が収録されていますが、最近はあまり旅行をされていないですか?
「旅行というかね、月に一回、九州・沖縄の匠を取材するという仕事はずっとやっていて(TNCテレビ西日本『「匠の蔵」~HISTORY OF MEISTER ~』)。インプットだけの仕事って珍しいんですけど、すごく楽しいです。工芸や陶器、竹細工とかの人間国宝級の人たちから、パティシエや料理人、無農薬で畑をやっている人とか、さまざまな匠をこれまで取材したのですが、いろんなジャンルの人と会えるのは良いインプットになっています。
プロのアナウンサーではないし、インタビュアーではないのですけれども、自分もやっぱりクリエイティブなことをやっているというつながりで、割と心を開いてもらえているのかなっていう感じがあって楽しいですね」
──短歌は狙って作品をつくれるわけではないと思いますが、今後どのような歌をつくりつづけていきたいと考えていますか?
「いま、本当におっしゃった通りで、先に『こんな歌をつくろう』と思ってつくるっていうことはまずないので、逆にできた歌を見て『あ、いま自分はこういう場所にいるんだな』とか『こういう気持ちで生きているんだな』ということを教えられる感じのほうが強いですね」
──鏡みたいなものなんですね。
「そうですね。自分の鏡でもあるし、時代の鏡でもあるっていうかな。意識しなくてもやっぱりそれをうつしとってくれるものだと思います」
──俵さんの歌を読んでいると、常に新しい感覚を取り入れられていることも感じます。ご自身の感覚を更新しつつ、24歳の『サラダ記念日』でのデビュー以来、第一線に立ちつづけることができている秘訣は何でしょうか?
「常に言葉に興味があるっていうのは大きいような気がしますね。言葉というのは自然とその時代、時代を反映しているものですし、言葉のオタクというかね、『私の推しは言葉だ』とよく言っているんですけど、推し活みたいに言葉が賑やかなところには出かけていきたいですし。言葉って常に人や人の想い、時代を反映しているものですから、そういう意味では時代とヴィヴィッドに関わりつづけていられるのは、やっぱり自分が言葉を好きだからかな、と思います。
あと、子どもが若いというのもありますね。いまの20代の人たちの言葉や、彼らが感じたり考えたりしていることを60歳過ぎてこんな身近に摂取できることって、なかなかないと思うんですよ。高齢出産の数少ない良いところがもう一つ増えたな、と」

『生きる言葉』
著者/俵万智
定価/¥1,034
発行/新潮社
Photos:Ayako Masunaga Interview & Text:Miki Hayashi Edit:Mariko Kimbara
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