ブラジルを代表する監督ウォルター・サレスの新たなる金字塔。『アイム・スティル・ヒア』

2024年9月、ワールドプレミア上映された第81回ヴィネチア国際映画祭での最優秀脚本賞を皮切りに絶賛の声が広がり続け、2025年3月の第97回アカデミー賞では国際長編映画賞を受賞。賞レースの中でも傑出した一本として注目され、すでにクラシックの風格を湛えた名作がついに日本公開となる。ブラジル出身の名匠ウォルター・サレス監督(1956年生まれ)が、軍事独裁政権下の祖国で起きた有名な事件を映画化した『アイム・スティル・ヒア』だ。

歴史の中で消えかけていた“声”が蘇る──。軍事独裁政権下で起きたひとりの女性と家族の長く静かな闘い
題材となるのは圧政の現代史。1971年1月、元ブラジル下院議員の政治家、ルーベンス・パイヴァが反体制派の容疑をかけられて軍に逮捕され、そのまま消息を絶った。この理不尽な弾圧を、夫の行方を追い続けた妻エウニセ・パイヴァの姿を軸に描く。原作は事件当時10代の少年だった彼らの息子である作家・ジャーナリスト、マルセロ・ルーベンス・パイヴァが2015年に発表した回顧録『Ainda estou apui』(映画の原題と同名)。またサレス監督は少年期にパイヴァ家と親交があり、マルセロをはじめ一家の子どもたちとは友人だったという。

物語は1970年12月のリオデジャネイロから始まる。レブロンビーチ近くの洒脱な自宅で裕福な暮らしを送るパイヴァ家。父のルーベンス(セルトン・メロ)、母のエウニセ(フェルナンダ・トーレス)と5人の子どもたちが過ごす一家には幸福な時間が流れていた。1964年の軍事クーデターで任期が取り消されたルーベンスは、以降市民としてのキャリアに戻り、仲間たちの政治活動、そして政治亡命者たちを密かに支援し続けていた。

長女ヴェロカは同時代の空気をたっぷり受けた“いまどきの学生”で、部屋にはジャン=リュック・ゴダール監督の映画『中国女』(1967年)やロックミュージシャンなど多数のピンナップがにぎやかに並んでいる。セルジュ・ゲンズブール&ジェーン・バーキンのレコード『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』(1969年)をかけて、妹と踊ったりも。サレス監督も公式インタビューで語っているように、リベラルで教養豊かなパイヴァ家には、欧米のヒップな映画・音楽やトロピカリア(ブラジル音楽にロックや前衛芸術の要素を取り入れた革新的文化運動)など先進的なカルチャーが流れ込んでいたのだ。

だが外の世界では政情不安が激化。自称「民族解放同盟」による駐ブラジル・スイス大使誘拐事件をきっかけに、軍の抑圧は市民にも押し寄せてきた。そしてルーベンスは軍に強制連行。その場面では、軍に追われて英国に亡命したカエターノ・ヴェローゾが1971年に発売した『イン・ロンドン』のレコードジャケットが象徴的に映る。こういった小物使いが実に効果的だ。35mmとスーパー8を併用したフィルム撮影も当時の時代感覚をよく伝える。
突然、夫と引き裂かれたエウニセは、ルーベンスの行方を必死に捜索するが、まもなく彼女自身も次女エリアナと共に、軍に逮捕されて過酷な尋問を受ける。数日後に釈放されたものの、夫の消息は一切知らされなかった。
そして時制は事件から25年後の1996年、さらに2014年へと飛ぶ。この映画は血塗られた歴史を扱うが、しかし直截的な暴力の場面をあえて避けている。余白や沈黙の力を活かし、政治に翻弄されたひとつの家族、そして夫を奪われたエウニセという女性の粘り強い闘いを静かに綴る。エウニセが夫の消息を追い続ける姿勢は、何度も失望を抱きながらも、その声を世の中へ響かせ続ける力の象徴と言える。

主演はサレス作品の常連であるフェルナンダ・トーレス(1965年生まれ)。やがて人権弁護士となり国の責任追及を続けるエウニセの姿は、むしろ冷静で慎ましい佇まいながら、理不尽な権力に抗う力と信念に満ちていて圧巻だ。トーレスは本作で第82回ゴールデングローブ賞ドラマ部門の主演女優賞を受賞(ブラジル人女優としては初の快挙)。第97回アカデミー賞では主演女優賞にノミネートを果たした。
さらに老年期のエウニセを演じるのは、サレス監督の『セントラル・ステーション』(1998年)に主演したトーレスの実母フェルナンダ・モンテネグロ(1929年生まれ)。娘から母へとバトンを手渡す──この親子2代の共演は美しいコーダを奏で、我々観客を物語のさらなる深層へと導き、心を貫く声となって響く。

先述の『セントラル・ステーション』に加え、のちの革命家チェ・ゲバラが医大生だった頃の若き日の南米旅行記を描いた『モーターサイクル・ダイアリーズ』(2004年)、米ビートニク文学を代表するジャック・ケルアックの同名小説を映画化した『オン・ザ・ロード』(2012年)など、数々の傑作を生み出してきたウォルター・サレス監督だが、本作は彼にとって、ダニエラ・トマスと共同監督した『リーニャ・ヂ・パッシ』(2008年)以来、16年ぶりに祖国ブラジルを舞台にした作品である。本国では、パンデミック以降の国産映画では異例の観客数を動員し、社会現象と呼ばれるほどの国民的大ヒットを記録した。エウニセの懸命な活動、そして家族の長年の想いは、この映画『アイム・スティル・ヒア』にまで結実して、政治の暗黒に抑圧されていた沈黙を打ち破り、歴史の中で消えかけていた声を蘇らせたのだ。
『アイム・スティル・ヒア』
監督/ウォルター・サレス
出演/フェルナンダ・トーレス、セルトン・メロ、フェルナンダ・モンテネグロ
8月8日(金)公開
https://klockworx.com/movies/imstillhere/
©2024 VideoFilmes/RT Features/Globoplay/Conspiração/MACT Productions/ARTE France Cinéma
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Text:Naoto Mori Edit:Sayaka Ito
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