ファッションの楽しさと自由さを伝える「TENDER PERSON」の服作り
「TENDER PERSON(テンダーパーソン)」のデザイナーデュオとして活躍するヤシゲ ユウトとビアンカ。ファッションを学びながらブランドを立ち上げ、2024年の今年11周年をむかえる。異例の成長を続けるブランドの秘訣とクリエイションの背景、自らのファッションにまつわる原体験をビアンカにインタビュー。
──学生時代に二人でテンダーパーソンをスタートすることになった経緯は?
「知り合ったのは文化祭の係が同じだったこと。ヤシゲは文化服装学院アパレルデザイン科、私は4年制の高度専門士科に通っていて。クラスは違いましたが、ファッションスナップを見て、存在は知っていました。その後、ヤシゲの友人が展示会を開催するために、会場を割り勘できる人を探していたんです。周囲の生徒たちがコンテストなどに参加する中、“何かに挑戦したい”という気持ちがあったのでヤシゲとブランドを作って参加することに。正直、学生時代の思い出で終わると思っていたので、本格的に活動するとは考えてもいませんでした」
──それぞれの役割分担を教えてください。
「どちらがデザイナー、ディレクターと分けずに活動してきました。シーズン前に各々やりたいことやアイデアを出し合う会話の中から広がっていく。だいたいは私にやりたいことが膨大にあって、ヤシゲが削ぎ落としていい要素を見つけてくれる感じ。意見がぶつかることもありますが、バランスはいいと思います」
──10年も活動を続けることができた秘訣は?
「周囲の応援が大きいです。原宿のセレクトショップDOGは、一番最初に委託という形で取り扱ってくれました。商品というより作品に近い状態でしたが、スタイリストさんがアーティストの衣装に使ってくれたことが大きいです。いわゆる売り込みは当初やり方がわからず、したことがありませんでした」
──どんなアーティストの衣装に採用されたのでしょうか。
「倖田來未さんのライブ衣装です。こういう服のテンションでも作り続けていいんだと励みになりました。求めてくれるアーティストやスタイリストがいることが製作の原動力になって。次のシーズンは、さらにスタイリストさんの間に広まり。展示会に来た友人たちが応援したいと買ってくれたのも嬉しかったですね。回を重ねるごとに展示会への来場者が増えたのも自信になりました」
──ブランド設立当時、どのようにブランドが認知されていったのでしょう?
「SNSが今ほど盛り上がっていなかったので、渋谷のクラブ、トランプルームのイベントに自らロゴの服を着て行って、ブランドを紹介して回りました。2017年に、フレームモチーフを提案したシーズンにインフルエンサーを中心に人気が出たこと。正式な取り扱い店舗も増えました。それでコレクションとして見せて本格的にやっていこうと考えるように。当時はバイトと掛け持ちしながらブランドをやっていたんですが、一本に絞ることにしました。DJのLiccax、ONE OK ROCKやオーラル・シガレッツが着てくれたことでファンに浸透していきました」
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──ランウェイ形式の発表も不定期で行っていますね。
「最初は2022年春夏コレクション。コロナ禍でしたが、宮下パーク内のクラブでオープン記念に声がかかり、自主開催しました。ショーをする楽しさを知りました。パンデミック中に表現の場あったのは運が良かったですね。次は、東京ファッションアワードを受賞した2023年。パリで展示会をするチャンスもいただいて海外でも認知されるきっかけになり、ありがたい経験でした」
──ブランドを象徴するアイテムを教えてください。
「フレームモチーフやサーモグラフィ柄、クロシェ編みニットは、毎シーズン出しています。フレームモチーフは、ヤシゲがリサクルショップで掘り出してきた、某ブランドの元ネタの古着Tシャツを着ていて、その柄がファイヤーだったんです。燃えている柄は着ると自分たちも強くなれる気がするんです。サーモグラフィーは、コロナ禍で増えた検温マシーンを見て好きな色がたくさん使われていると気づいて(笑)。フォトショップで柄を作りました。自分の中の温度感や気分をそのまま表現しているので、悲しい時はブルー系、ハッピーな時はレッド系にシーズンごとに少しずつ色調が異なるんです」
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──インスピレーション源はどこから?
「身近なものと過去の記憶です。自分がまっさらな状態の時にピンときた物事が多いです。例えば、子どもの頃に初めて作った服が、お父さんのいらないシャツをチクチク縫ってリメイクしたギャザーシャツだったんです。当時は知識がなく適当に作っていましたが、縫い代にゴムを通したら着られたことが記憶に残っています。これが発端となってギャザーシャツを作りました」
──手編みのニットはどのように生産を?
「コロナ禍に母が失業してしまい、“この技術を生かしたい。何か一緒にやろう”と思い手編みのアイテムを作ることに。サンプルと一部商品も作ってもらっています。母もやりがいを感じてくれてどんどんヒートアップしています(笑)」
──パンツの展開が多い理由は?
「最初から“1つのコンセプトとワードローブを男女でシェアする”をテーマにしたユニセックスブランドだからです。私自身メンズの服を着るし、ヤシゲもウィメンズのヴィンテージのブラウスを着るので、性別では区切れない。サイズ展開は、1、2が女性、3、4が男性を想定しています」
──2024 SS のテーマ「All You Need Is Love」にはどんな意味を込めたのでしょう?
「ファッションが好きだし、愛だと思うんです。自分が好きなことをやっていけるのは、工場さん、プレス、セールスの協力があってだとあらためて思う一年でした。服作りができる環境に対する想いを形にしたくて。普段はネガティブになって、“もう無理だ、デザイナーに向いてない”と思いながら帰宅するときもあります。でも仕事を辞めようと思ったことはありません。それは服を好きで買ってくれる人やファッションが好きな人、ポップアップで店頭に立つときに感じることだったり、SNSの投稿を思い出すと励まされるから。
ただ、これまでの10年間休む暇もなく、振り返らずに全力で突っ走ってきたけど、今回、海外で初めて展示会をして良くも悪くも意見をいただき、ふと心身ともに疲れていることに気づいたんです。もっと頑張りたいけど何から始めればいいのかわからなくなった時期がありました。でも、テーマが決まってムードボードを作り始めていくうちに、ハートのモチーフの服を作りたいと思い立ち、そこからハートのベスト、愛をテーマにしたグラフィックのジャケットが生まれました」
23SSシーズン“More memories”コレクションで登場したファービー風⁉キャラクターを表現。
──エアブラシのグラフィックアイテムも、数シーズン続き印象的です。
「着物友禅の染めのお直しをしていた職人さんにお願いしています。京都の方で自分が作ったグラフィックを再現していただいてます。最初は、“面白いから何か一緒にしよう”と連絡をくださって。全て手描きなので、プリントでは出せない、ガサッとした風合いが魅力です。プリントだと技術的にジャケットのど真ん中にはグラフィックは入れられないのですが。ニットなど裾の炎型くりぬきも、刺繍の職人にお願いしています。職人の手仕事はずっと興味があったので、ご一緒できて嬉しいですね」
──職人さんと仕事する上で、印象に残っているエピソードはありますか。
「最初は生地をどこで買うのかも、頼める工場もわからなかったんです。でも、デニムを作りたくて。ネットで検索したら、近所にデニム工場あると知り会いに行ったんです。『こういうのを作りたいんです』と話しても、『お金ないからダメ』と断られて。ブランドはやっていましたが突然に学生が押しかけて来たらそうなりますよね(笑)。でも通いつめてお願いしたら、前払いならやってくれることになったんです。そこから継続するうちに信頼感が生まれて、今となっては、少し難しい加工も引き受けてくださる。『またこんなの作って』と言いながらも、工場のトイレのドアにはテンダーパーソンのポスターが貼ってありました。内心はランウェイやアーティストの着用も喜んでくれているみたいです」
──若さゆえのアグレッシヴさがあったと。
「非常識ってよく言われたんですけど、それを上回る作りたい気持ちがありました。若くて無知だったけど、情熱だけはあってどこまでも馬鹿になれたというか。いまは必ずアポイントを入れますし、ちゃんと断れたら一回引くようになりましたが(笑)。ヤシゲも工場や、特に長くお世話になっているカットーソー工場のみなさんによく会いに行って、お茶をしています。人とのつながり、コミニケーションは大切にしています。」
──パリで展示会の反応はいかがでしたか。
「日本だとバイヤーさんの反応が曖昧というか、『検討します』と濁す感じが多いのですが、海外ははっきりしていて。お店の雰囲気に合わないから見るまでもないと、はっきり言われます。逆に気持ち良い反応だなと思いました。でもイタリアのお店や、これまではメンズが多かったけど、ウィメンズとして香港や中国などでの取引も決まりました。好きな方には刺さったみたいです。新しい見せ方を現地の方やバイヤーさんから教えてもらったと思っています」
──2024AWのテーマ「STAY GOLD」はどんなストーリーですか?
「『輝いて進み続けろ』という意味。誕生日が裏テーマなんですが、みんなに平等にある特別な日があることは素敵なことですよね。そんな日に着る服が地味じゃダメだと思い、キラキラした素材のアイテムを作りました。大きなパフェのプリントは、子どもの頃、とても裕福というわけではなかったから、誕生日に親とファミレスに行ってパフェを食べることが恒例だったんです。その思い出のデザートをおしゃれにアレンジして拡大しました。
あとは、母から誕生日にDVDをもらうことが多かったのですが、『アメリ』がお気に入りで。そこからフレンチな雰囲気のをツイードジャケットを作り、ルック撮影の場所もアメリ風に。ヤシゲは誕生日といえば『チャーリーとチョコレート工場』だといい、全身赤いルックを作りました。そんな感じに連想ゲームのようにコレクションを作っていきます」
──ビアンカさんらしさが表現されたモチーフやディテールは?
「私がカトリックの家で育ったから、シーズン問わず入ってくることが多いのは、宗教的なモチーフ。天と地に人を分かつシーンの宗教画を引用したこともあります。手編みのクロシェは、丸いテーブルクロスからヒントを得ました。縁にレースみたいにトリミングしてあって、それを襟に見立てました。母が手がけてくれたのですが、母はブラジル系で母国には手編みの文化があるんです。お土産や個人的な贈り物としても手作りする人も多くて。子どもの頃は、洗濯してもらったら、いつの間にか手編みの飾りつけがされて返ってきたこともありました、当時はそのカスタマイズが嫌だったんですけど(笑)」
──ファッションを好きになったきっかけ、その後の変遷を教えてください。
「テレビで観た『ファッション通信』。ミュウミュウのショーで見たワンピースを母に再現してもらったこともあります。小学校の入学式の服も、リクエストして祖母に作ってもらい、ブラジルから送ってもらっていました。ずっと服は好きで、高校は私服の学校に進学し、スナップに載りたい一心で、古着をリメイクしたり、H&Mやフォエバー21で買ってきた服を繋げたりしていました。念願の『FRUiT』や『TUNE』に載った時は嬉しかったですね。文化服装学院には入ってからはCANDYやFAKE TOKYOなどのセレクトショップに通って、ギャルからモードっぽい服装になっていきました。その頃はいつかショップ店員になりたいと思っていました」
──影響を受けた人物はいましたか?
「ファッションが自由だと気づかせてくれたのは、レディーガガ。中学生の時にダンスを習っていて、よく衣装を見ていたんです。全身キティちゃんのドレスや生肉ドレスを纏っていて、これもありなのかと衝撃を受けました。だったら家のカーテンもなんでもファッションになる可能性を秘めているし、何でも使えると可能性が広がって。原宿に行くことが増えて、アンダーカバーやヴィヴィアン・ウェストウッドが好きになりましたね」
──パンキッシュなものが好きだった時もあったのですか。
「精神性が大事だと思っていて。パンク的な服こそ着なかったのですが、社会に対する気持ちを服装に落とし込んでいるのはかっこいいし、ファッションにしかできなことだと気づきました。『自分もメッセージ性のある服を作りたい』と思うようになりました。その流れで、フェミニズムや人種差別の問題も知り、女性にも男性にも限定して服を作っていない原点はそこにあります。従兄弟が黒人ですけど、“黒人”という呼び方にも抵抗がある。なので撮影やショーのモデルは肌の色や年齢に捉われたくないという思いでキャスティングしています」
Photos:Anna Miyoshi Interview&Text:Aika Kawada Edit:Masumi Sasaki