感動的で新しい映画表現に出合える『彼女のいない部屋』
俳優であり、映画監督であるマチュー・アマルリックの最新監督作『彼女のいない部屋』。海外資料にあるストーリーは「家出をした女性の物語、のようだ」という1行のみ。フランス公開時にも物語の詳細は伏せられ、展開を知らない観客がある真実に気づいたとき、心が動揺するほど感動したという話題作だ。
「家出をした女性の物語、のようだ」とだけ記された1行をもとに彼女の旅が始まる──
監督:マチュー・アマルリック×主演:ヴィッキー・クリープスの化学反応。あふれ出す感情と、破格のストーリーテリングに涙!
「彼女に実際には何が起きたのか、この映画を観る前の方々には明らかにはなさらないでください」──。
これは監督を務めたフランスきっての名優として知られる、マチュー・アマルリック(1965年生まれ)から我々へのメッセージである。確かに本作『彼女のいない部屋』――原題“SERRE MOI FORT(私を抱きしめて)”は、なるだけ予備知識を入れずに観たほうがいいタイプの傑作だ(この文章も「説明を必要以上に重ねず、熱烈に紹介したい」という矛盾に引き裂かれそうだが!)。海外資料にあるストーリーは「家出をした女性の物語、のようだ」という1行のみ。2021年のフランス公開時にも、いわゆるネタバレどころか、事前情報としての物語の詳細は徹底して伏せられ、初めて本作に触れた観客はあまりに斬新なストーリーテリングと、ドラマとしての深みに驚嘆。心が動揺するほどの感動と、「ずっと涙が止まらない」という破格の反応を呼び起こしたという。
ではお話について、なるだけ手短に説明しよう。主人公の「彼女」はクラリス(ヴィッキー・クリープス)。舞台はフランスの地方都市らしい。彼女は車を走らせている。一方、夫のマルク(アリエ・ワルトアルテ)とふたりの小さな子どもたちが、ある部屋に居る。この別々の場所にいる両者の様子が並行して描かれていく。果たしてクラリスは家族を捨て、家出をしたのだろうか?
実はそうではない──ということだけは告げておいてもいいだろう。映画が始まってしばらく、我々はクラリスの事情を何も知らない。だが真実の情報が明らかになるにつれ、「人の見え方」というものはまったく違うものになる。
クラリスという名前はオーストリア出身の作家、ロベルト・ムージルの未完の長編小説『特性のない男』の登場人物、狂気に魅せられる女性クラリセから取られている。『彼女のいない部屋』のクラリスも、ある狂気に取り憑かれていると言えるが、その原因はいったい何なのか? バラバラのピースが突然つながる時、我々はこれまでの認識を覆される「物語」を体験していることに気づかされる。
原作はクロディーヌ・ガレアの2003年の戯曲“Je reviens de loin(私は遠くから帰ってくる)”。これを映画言語へと移植するべく独自に脚色したマチュー・アマルリックが試みたのは、トリッキーな仕掛けというより、誠実な人間把握による主観世界の探究だと思う。「喪失のエフェクト」に侵され、現実を食い破るように現われる幻覚、ありえたかもしれない未来の光景など──。
まさしくアマルリックは、現在のフランス映画界を代表する「総合映画人」のひとりだ。俳優としての彼は、例えばアルノー・デプレシャン監督の常連――『そして僕は恋をする』(1996年)や『キングス&クイーン』(2004年)や『クリスマス・ストーリー』(2008年)など。その中の『キングス&クイーン』と、『潜水服は蝶の夢を見る』(2007年/監督:ジュリアン・シュナーベル)ではセザール賞主演男優賞を受賞。黒沢清監督がフランスで撮った『ダゲレオタイプの女』(2016年)にも出演。さらに『ミュンヘン』(2005年/監督:スティーヴン・スピルバーグ)の情報屋ルイ役や『007 慰めの報酬』(2008年/監督:マーク・フォースター)の悪役ドミニク・グリーン、『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014年/監督:ウェス・アンダーソン)の執事セルジュ役など、ハリウッドメジャーの大作からアートハウス系の話題作まで、幅広く国際的な第一線で活躍し続けている。
もちろん監督としても超一流。『さすらいの女神たち』(2010年)はカンヌ国際映画祭で監督賞と国際映画批評家連盟賞をW受賞。『バルバラ セーヌの黒いバラ』(2017年)は、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門の開幕作に選ばれた。最新作となる本作は、昨年のカンヌ国際映画祭「カンヌ・プレミア」部門に公式出品。今回は映像と音響を繊細かつ大胆に組み合わせ、「感情のモンタージュ」とでも言うべき新しい映画話法を開拓した。冬のフランスの風景に染み込むベートーヴェンやショパンやモーツァルトらのピアノ曲。米国のシンガーソングライター、J.J.ケイルの1976年の名曲「チェリー」などの選曲も素晴らしい。
そんなアマルリックが、今回ヒロインの「彼女」=クラリス役としてがっつりタッグを組んだのは、卓越した等身大の感情表現で、いま最も引っ張りだこのヴィッキー・クリープス(1983年生まれ)。ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ファントム・スレッド』(2017年)で世界的に注目され、以降、ラウル・ペック監督の『マルクス・エンゲルス』(2017年)、M・ナイト・シャマラン監督の『オールド』(2021年)、ミア・ハンセン=ラヴ監督の『ベルイマン島にて』(2021年)など、まるでひとつの「時代のアイコン」のように重要な映画作家の新作に続々出演している。その順風満帆のキャリアの中でも、クリープスのベスト演技と評された『彼女のいない部屋』は特別な一本になったはず。今年のカンヌ映画祭「ある視点」部門の最優秀演技賞にも輝き、2022年のセザール賞女優賞にもノミネートされた。
映画という表現ジャンルにおいて、まだまだ残されたフィクションの力、ドラマの語り方の可能性を示してくれた本作は、監督のアマルリックにとっても、主演のクリープスにとっても代表作になったと言えるだろう。――おっと、なんだか書き過ぎた気がする。とにかく映画本編を観て!
『彼女のいない部屋』
監督/マチュー・アマルリック
出演/ヴィッキー・クリープス、アリエ・ワルトアルテ
Bunkamuraル・シネマ他全国順次公開中
https://moviola.jp/kanojo/
© 2021 – LES FILMS DU POISSON – GAUMONT – ARTE FRANCE CINEMA – LUPA FILM
Text:Naoto Mori Edit:Sayaka Ito