松尾貴史が選ぶ今月の映画『アナザーラウンド』
マッツ・ミケルセン演じる冴えない高校教師とその同僚3人は、ノルウェー人哲学者の理論を証明するため、仕事中にある一定量の酒を飲み、常に酔った状態を保つというとんでもない実験に取り組むが──。第93回アカデミー賞国際長編映画賞など多数受賞した映画『アナザーラウンド』の見どころを松尾貴史が語る。(『Numero TOKYO(ヌメロ・トウキョウ)』2021年10月号掲載)
酒を通して見る人間ドラマ
最近はインターネットのA.I.の所業で、得たい情報がシステムに蓄積されて、自分が望む内容の情報ばかりがコンピュータ上にあふれて、実は自分だけがその中にいるだけなのに、まるで世の中の人はみんな自分と同じ考え方をしているような錯覚に陥りがちです。降り注いでくる事柄が、いわゆる「快楽情報」ばかりになってしまい、しかしそれが信じたい情報であるがために、吟味も検証もせず鵜呑みにしてしまうことも多くなっていると思います。
さて、この映画に登場する冴えない学校教師たちにとって、とてつもなく信じたい情報が仲間によってもたらされます。あるノルウェーの精神科医が提唱した「人間は血中アルコール濃度が0.05%程度に保たれると、自信と活力が生まれてさまざまな成果を生むことができる」という説です。ヘミングウェイも、ロートレックも、チャイコフスキーも、チャーチルも、酒によってインスピレーションやアイデアを湧かせていたことは知られています。そして、その効用を感じているからこその愛飲家の多さなのでしょう。
劇中、たくさんの飲酒シーンが出てきて、未成年の生徒たちに飲ませる場面もありますが、信じ難いことに、撮影中、本物の酒類は使用されていないようです。舞台であるデンマークでは購入や飲食店でのそれでなければ、飲酒の法的な年齢制限がないそうですが。
お酒に対して、首相以下、政府や各自治体ぐるみでネガティヴな印象を蔓延させているこの日本の状況下で、酒場好きの私にとって、この映画そのものが快楽情報なのかもしれません。酒を酌み交わし、騒ぎ、踊り、回し飲みをするという、ほんの2年足らず前には街中で当たり前のようにしていたことが、この映像の中ではまるでメルヘンのように描写されています。
もちろん、この映画は酒讃歌ではありません。酒の力でも借りてなんとかかつての自分を取り戻そうという、弱い人間の集団の顛末なのです。切ない家族との葛藤や寂しさとの向き合い方など、優れた人間ドラマのフィルターを酒が担っているのです。
トマス・ヴィンターベア監督は、撮影に入って4日目に、19歳の愛娘を事故で亡くしてしまったそうです。その悲しみの心境から、作品に何らかの反映もあるのではないかと、後追いで想像します。アメリカの第93回アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞し、監督賞にもノミネートされた作品で、他にも世界の数々の映画賞を獲得した、チケットが「お買い得」な作品です。ただし、映画を見ている途中からも酒を飲んで盛り上がりたいという衝動を喚起するのに十分な作品ですので、どうにも我慢ができなくなってしまうかもしれませんが、映画館にウイスキーの小瓶を持ち込んでお飲みになるようなことは、よもや……。
『アナザーラウンド』
監督/トマス・ヴィンターベア
出演/マッツ・ミケルセン、トマス・ボー・ラーセン、マグナス・ミラン、ラース・ランゼ、マリア・ボネヴィー
9月3日(金)より、新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町、渋谷シネクイントほか全国公開
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配給/クロックワークス
Text:Takashi Matsuo Edit:Sayaka Ito