松尾貴史が選ぶ今月の映画 『存在のない子供たち』
誕生日も知らない、戸籍もない少年ゼインは「僕を産んだ罪」で両親を告訴する。そこに至るまでの彼の痛切な思いとは。監督はレバノンで生まれ育ち、『キャラメル』(2007)で鮮烈なデビューを飾ったナディーン・ラバキー。本年度のカンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査委員長にも就任している彼女は、いま最も目が離せない監督の一人。映画『存在のない子供たち』の見どころを松尾貴史が語る。(「ヌメロ・トウキョウ」2019年9月号掲載)
不当に扱われている現実の子供たち
「子供が親を告訴する話」と聞いて、「それなら私にも身に覚えがある」と、喜んで観ることにしました。
中学一年の頃、落語好きだった私は今のようにYouTubeはおろかCDプレイヤーもiTunesもない時代のこと、落語番組に間に合うようテレビの前にカセットテープレコーダーをセットして、出囃子が始まる瞬間に録音と再生のボタンを同時に押してTDKのカセットテープに記録するという作業を、飽き性の私が根気よく続けて結構なライブラリーが蓄積していた時でした。
余りにも私の学校での成績が悪く、業を煮やした父親が、その集大成ともいえる血と汗の結晶を、私が学校へ行っているすきに、箱ごと捨ててしまったのです。
神戸市の職業別電話帳で家の近所の弁護士を探して電話をかけ、「父を訴えます」と告げたことを、昨日のことのように鮮烈に覚えています。結局のところ「ボクのためを思ってしてくれたんだよ」という弁護士氏の「説諭」?によって「取り下げた」私ですが、そんな思い出も抱きつつ映画を見ました。
果たして、映画の中の「ボク」の環境、体験、周りからの仕打ちは、私ごときのそれとは全く違う宇宙の出来事でした。自分は何とぬるま湯で愛に囲まれて育ったのだろうと、ただ感謝が湧くばかりのものでした。
貧しい貧民街で育てられている、というよりはなんとか生き抜いているゼインは、おそらく12歳くらいです。本当は何歳か、当人にもわかっていないのです。形ばかりは両親とは暮らしているけれど、学校にも行かせてもらえず働かされています。妹たちも自家製のジュースの露店販売をやらされ、親の代わりに家賃を捻出しているのです。
親がいるのに何歳かもわからず、自分の誕生日も知らないという子供たちの生活がどういうものか、想像するに難くありません。そこには愛情ではなく、金ヅルとしての労働力、あるいは商品としての所有欲が存在するだけなのです。事実、初潮を迎えた妹は、強欲な大家にわずか11歳で嫁がされる話が持ち上がります。
裁判と、回想シーンの往復で事実が紐解かれていくのですが、その構成が見事です。そして何と言ってもゼインを演じるゼイン・アル=ラフィーア君の、「これはドキュメンタリーではないのか」という現実味に圧倒されます。彼は、ナディーン・ラバキー監督が実際にそのような境遇で暮らす彼を抜擢しての導演だったそうで、彼女の眼力もまた超絶なのです。
登場する黒人の赤ちゃんもすごい。移住手続きの問題からでしょうか、この作品の撮影中に両親ともに逮捕されてしまい、父親はいまだに別の国で暮らすことを余儀なくされています。
ある意味、ドキュメンタリーよりも生々しい多重構造がここにあるのです。
『存在のない子供たち』
監督:ナディーン・ラバキー
出演:ゼイン・アル=ラフィーア、ヨルダノス・シフェラウ、ボルワティフ・トレジャー・バンコレ
2019年7月20日(土)よりシネスイッチ銀座、ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿武蔵野館ほか全国公開
©2018MoozFilms/©Fares Sokhon
Text:Takashi Matsuo Edit:Sayaka Ito