モード界の“小さな巨人”アズディン・アライアが語る人生とは | Numero TOKYO
Interview / Post

モード界の“小さな巨人”
アズディン・アライアが語る人生とは

モード史に名を刻む、偉大なるデザイナー、アズディン・アライア(Azzedine Alaia)がこの世を去った。突然のニュースにファッション業界が悲しみに暮れている。10年前に本誌で行ったインタビュー記事とともに、彼の素晴らしきデザイナー人生を振り返る。アライア追悼企画。(「ヌメロ・トウキョウ(Numero TOKYO)」2007年8月号掲載)

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グレタ・ガルボからグレース・ジョーンズまで多くの女性を虜にしてきたアズディン・アライアの服。ボディコンシャス・スタイルで一世を風靡し、1980年代の終焉とともに用済みになったと思われたが、彼の至高の技術は、偉大なファッションデザイナーの最後の一人であることを証明している。このモード界の一匹狼に、伝説と呼ぶにふさわしい、その脅威的で彗星のような軌跡を振り返ってもらった。

──アズディン、年齢を偽っても無駄ですよ。あなたが何歳かはちゃんと分かっているんですから。

「つまり?」

──67歳です。

「私は古代エジブトのファラオと同じくらいの年寄りですよ。生まれたのはチュニスで、父は農場で働いていました。小麦とトウモロコシの畑を持っていて、牛や馬、羊、ヤギを育てていたんです。母は職業を持っていませんでした。子どもだけでなく、同居していた自分の両親の世話もしなければならなかったので。鼻持ちならないほどの金持ちでも、極端に貧乏でもありませんでしたよ。だからジャーナリズムにおきまりの「安っぽいサクセスストーリー」はやめてくださいね。私のケースは、そんな話には当てはまらないんですから」

──ご兄弟は?

「兄と姉が一人ずついます。母はあまり裕福な家庭の出ではありませんでしたが、父は健全な中産階級の出身でした。父方も母方もイスラム教徒でしたが、我が家では女性は常に最高の敬意を持って扱われました。ヴェールをかぶっていたのは祖母で明けでした。しかも、「他の人たちが異聞のおいた顔を見なくてすむようにそうしているだけ」と言っていたものです。私はユダヤ教徒、カトリック、イスラム教徒が混じり合う、人種と宗教のるつぼの中で立ちました。社会的・人種的な区分はなかったのです」

──いい子の時は本当にいい子で、悪い時は本当に悪かったんでしょうね。今と同じように。

「子どものころはべたべたに甘やかされていたので、癇癪を起こしたり、大騒ぎしたりする必要もないくらいでした。期待を裏切って申し訳ないのですが、子ども時代のトラウマはまったくありません。愛にあふれた環境で育ち、主に祖父母が面倒を見てくれました。祖母はその年齢と生い立ちを考えれば、びっくりするほど自由な考えの持ち主でした。7歳になるまでは、宗教や規律に基づく厳しい教育をすべきではないと信じていたのです。祖母は「幼年期の子どもは、優しく愛を持って育てるべきだ。自分を嫌いになる時間は残りの人生にたっぷりあるのだから」と言っていました。一方、祖父は警察官で、パトロールに一緒に連れて言ってくれました。私は時間のある時には映画館に行って、映画の場面や会話、サウンドトラックや衣装を細部に至るまで覚え込んでいたものです」

──どんな映画がお好きだったのですか?

「主にエジブト映画ですが、ハリウッドの古典的な作品も少し見ました。エリザベス・テイラーやリタ・ヘイワースといったミューズたちが出演している映画です。とても幼いころから女性に魅了され、兄よりも姉の方とはるかに親密でした。兄は内向的でよそよそしい人だったのです。姉と私は午後になると、おしゃべりしたり歌を歌ったり、笑いあったり、跳ね回ったりして一緒に過ごしていました。私はじっとしていられない子どもでした。好奇心とエネルギーでいっぱいだったのです」

「夜会服を作ろうと
カーテンを引き裂いたことはありませんよ」

──自尊心のあるデザイナーが大抵そうであるように、あなたもお姉さんの人形に服を着せたり、おばあさんのコルセットの紐を結んであげたりしたんですか?

「そんなことはまったくありませんでした。デザイナーというものは、まるでジェーン・オースティンの小説から抜け出たようなロマンティックなヒーローに自分を見せようとして、人生を脚色してしまうことが多いんです。私は子どもの頃、完璧に裕福でしたし、綺麗なドレスや遠い国々のことを夢に見るなど思いもよりませんでした。例えば、家族ぐるみの付き合いのあった友人の一人が結婚した相手は、チュニス一のダンサーでした、アメリカ人の父親とチュニジア人の母親を持つ、魅惑的な女性でした。彼女がアストラカンの縁取りのある深紅の乗馬用ジャケットを着て、クリスチャン・ディオールから来たお針子たちを従えて堂々と仮縫いにやって来たのを覚えています。彼女が私の手を取って、一緒に道を歩いてくれると、いつでも人が振り返ったものでした。私はまだ若かったのですが、彼女がどれだけ注目を浴びているかを痛いほど実感していました。私もその注目のおこぼれにあずかっていたんです」

──ファッションデザインに対するあなたの長期的な展望に影響を与えた女性は、他に誰がいますか?

「村の助産師だったマダム・ピノーは、人生を通じての私の女性観に深い影響を与えました。マダム・ピノーはフランス人で、1930年代にノルマンディーからチュニジアにやって来た人です。母の三度の出産を手伝ってくれ、いつも私を可愛がってくれました。私はマダム・ピノーのところで週末を過ごし、日曜日には、この年長の女政治家のような堂々たる女性を教会へとエスコートして、得意になっていたものです」

──あなたは小学校で落第し、チュニス美術学校も卒業できていませんが、何が問題だったのでしょう。慢性的に注意力が欠けていたのでしょうか?

「そんなこと、どうだっていいでしょう。何かを成し遂げるのに高等教育は、絶対不可欠なわけではありませんし、私が言えるのは、いわゆる「人生という大学」で美術学校でよりもはるかに多くのことを学んだということだけです。私は両親に内緒で美術学校に入学し、鉛筆やチャコール、紙の費用をまかなうために、地元のお針子のところで働いていました。女の子たちが、装飾物が詰まった箱を抱えて店に入る私を見かけて、パリのオートクチュールの安い模造品を作るチュニスのファッションハウスに推薦してくれました。夏休みの間に、チュニスのファッションデザイナーと契約を交わし、美術学校に戻ることはありませんでした。その後もいろいろとあって、気がつくとパリのクリスチャン・ディオールで働いていたというわけです」

「私のパリへの登場は
堂々たるものでしたよ」

──アルジェリア戦争の末期だった当時、17歳のチュニジアからの移民にとって、パリのファッション界の扉は、三重に鍵が掛けられているといっても良いほど固く閉ざされていたのではありませんか?

「芸術のパトロン、慈善事業家、錚々たる著名人たちが十分にお膳立てをしてくれたのです。フランスの建築家ベルナール・ゼルフュスの妻であるマダム・シモーヌ・ゼルフュスがすぐに私をサポートしてくれました。口コミで評判が広まり、パリのカフェに集う社交界の最上の人々が私に会おうと押し掛けてくるようになり、気がつけば私はニコール・ド・ブレジェール伯爵夫人と宮殿のような別荘で一緒に暮らしていました。これは、当時外国人を嫌う風潮が蔓延していなかったという意味ではありません。アルジェリア戦争が終結に向かっている時期でしたし、アダム・ド・ブレジェールは偏屈者を撃退するために、私に特別な推薦状を書いてくれさえしたのです。しかしその一方で、友人とは自分で選ぶものですし、私は決して極右におべっかを使う人間ではありませんでした。ルイーズ・ド・ヴィルモランやド・マザン侯爵夫人といった貴婦人は、私に居心地の悪い思いをさせようなどと考えたこともなかったでしょう」

──ムッシュ・ディオールにお会いになったことはありますか?

「私がパリに到着するほんの数週間前に、ムッシュ・ディオールはなくなり、ムッシュ・サンローランが後任に任命されていました。でも、私のディオールでの仕事はどちらかといえば不快な事実に直面する経験でした。敷地に入るや否や、外国人で就労許可を得ていないという理由で解雇されてしまったのですからね。これはまったくのたわごとでした。何もかもがきちんとしたものだったのに・・・おそらく、私の肌の色を除いてはね。私を推薦してくれた女性が土壇場でおじけづき、保証人になってくれなかったのです。でも、そのことに文句をいったりはしませんよ。こういうシチュエーションには強いのです。すぐにギ・ラロッシュに仕事を見つけましたが、当時のギ・ラロッシュは、昼食に出かける婦人たちが着るようなビーズのついたカクテルドレスの第一人者でした。3シーズンをタイユール(女性用のテイラード)のアトリエで過ごし、素晴らしいスーツの裁断についてはあらゆることを学びました。素敵な人ばかりで、とても楽しかったですよ。当時、アーティストのレイラ・マシャリがラロッシュのモデルをしていて、毎晩一緒に遊び回ったものです」

「私がキスした相手を知りたがる
詮索好きのジャーナリストに
洗濯物を嗅ぎ回られたくありません」

──あなたが長年のパートナー、ドイツのアーティストであるクリストフ・フォン・ヴァイヘと出会ったのもこのころのことですか?

「それはあなたに関係ないことです。性の基礎知識についてなら喜んでお話しますが、それ以外に関しては、自分の私生活はまさに私的なものに留めておきたいですね」

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「私をキャーキャーうるさい
ホモだとでも思っているんですか!?」

──カール・ラガーフェルドやイヴ・サンローランと一緒に、パリの悪名高いクラブ・セットに繰り出したりしたのでしょうか?

「私が一緒に遊んでいたのは当時最高のモデルであるローズマリー・ル・ケレックです。 ギィ・ブルダンのスタジオまで彼女を迎えに行って、町中のキャバレー、ディスコ、飲み屋へと連れ回したものです」

──自分の会社を設立しようと思ったのはいつのことですか?

「パリに来てからというもの、強力な顧客を集めていましたからラロッシュを離れるとすぐに自分のアトリエを開くことができました。マダム・ゼルフュスが私のために、ロード・ゼルフェスが私のために、バイロン通りにある小さな屋根裏のスタジオを用意してくれました。カリン・ロワトフェルドの両親が同じ建物に住んでおり、子どもの頃の小さなカリンが、そこらを走り回っていたのを覚えていますよ。後に、ド・ブレジュール伯爵夫人が私をベルシャッス通りのアパルトマンに移してくれました。突然、セシール・ド・ロートシルト、アルレッティ、グレタ・ガルボ、ベッティーナ・グラツィアーニといった、パリでも最も金離れの良い社交界の花形たちが、仮縫いのためアトリエに列をなしてやって来るようになりました。自分で仕事を管理し、クライアントと直接話をするのは、自分の名前がついてもいないレーベルで雇われた助っ人として働くよりも、はるかに楽な仕事だと分かりましたよ」

──長い目で見て、ラグジュアリー・グループと契約するのと、あきらめず自力でやっていくのと、若いデザイナーにとってどちらがよいのでしょう?

「若いデザイナーが狭苦しいワンルームのアパートから、世界的なブランドを立ち上げるのは、ほぼ不可能でしょう。私が仕事を始めたのはファッションデザインの世界がプレタボルテに取り組み始めたころだったので、工場も製造会社も若い才能を喜んで支援してくれました。でも時代は変わりましたし、マーケットはますます飽和状態になってきています。強力な経済面での支援なしに、製造・販売・輸送にかかる費用を負担できる人などいるでしょうか? それに加えて、競争はますます激しくなって来ています。最近では、会社を設立するやいなや困難に直面することになります。ラグジュアリー・グループがうようよしている水の中を泳ぎ渡っていかなければならないのですからね。一方、ファッション雑誌は完璧に広告主に売り渡されてしまい、広告料を払えない一文無しの若いデザイナーに割く時間などありません。今日の若いデザイナーは、安定した会社でデザインを始め、独立するだけの名声と金が集まるのを待っている人がほとんどです。そうして独立したとしても、やっていくのはなかなか難しいでしょう。高額の給料、経費の払い戻し、ファーストクラスのチケット、運転手付きの車などをわざわざ手放そうという人はなかなかいないですからね」

──2000年にプラダ・グループと緩やかな支援契約を結んだのはなぜですか?

「プラダとの契約は、私が自分の会社のクリエイティブ面に関するコントロールを保持できるものです。一方、ビジネス面は完全に独立して、ここパリで運営されます。商売を繁盛させるために私が努力しているとすれば、それはただ、経理屋たちを遠ざけておきたいからにすぎません。自分の決断に関して、誰にも言い訳しなくてもいいようにしたいだけなのです。私は人の指図は受けません。今までもそうだったし、これからもそうでしょう。とは言っても、何年もアトリエに負担をかけていた、オートクチュール部門を削減はしました。商業的に存続可能な状態ではなかったので。代わりに、プレタポルテやアクセサリーに集中し、どちらの部門も非常に好調です」

──ナオミ・キャンベルは、80年代にあなたと一緒に住んでいた頃、携帯電話であなたの頭を殴ったりしたことはありましたか?

「一度もありませんよ」

──でも、ナオミがマンハッタンで地域奉仕活動のためにゴミ捨て場に登場した時には、アライアの素敵な服を着ていましたよね。

「それはよかった!完璧にマニキュアされた爪についたちょっとした泥ほど、自分の知名度を上げ、ゴシップ好きな人たちを喋らせておくのに役立つものはありませんからね。ケイト・モスもこの手で成功したんです。ちょっとしたスキャンダルの煙を立ってて、その後何カ月もあらゆる広告や雑誌に登場していたでしょう。大衆は自分たちが求めるものを手に入れたがるものです。大衆がナオミを「位を追われた女王」として描き出したのですから、彼女がその役に似合う服装をしても当然でしょう」

──王族といえば、ダイアナ妃の服を手がけたことはありますか?

「ありません。しかしそうは言っても、ダイアナ妃の個人的なスタイルのセンスはあまり当てにならないものでしたね、気の毒ですが。一度会ったことはあります。時代に流されない王家の風格という点では皇太后を見習ったらよいのではないかとアドバイスしました。その後、私の親友ジャンニ・ヴェルサーチの葬儀でもう一度ダイアナ妃に出くわしました。あれは奇妙な出来事でしたね。葬儀というより、社交上のイベントか、もっといえばファッション界のパーティに近いようなものでした。席順が決まっていて、カクテルが振る舞われ、デザイナーたちが側近や取り巻きと一緒に大挙して押し寄せるのです。まったくの無秩序状態でしたよ。なぜデザイナーがあんなにも多くの広報担当マネージャーを必要とするのか、まったく理解できません。キャーキャー騒ぐグルーピーを撃退するため? 痴漢や熱心すぎるファンから身を守るため?」

あんなけばけばしい一群を見たら、
誰だって走って1マイルは
遠ざかりたくなるでしょうにね

──ステファニー・シーモア以外の人なら誰でも真空パックされたハムみたいに見えてしまうような、体にぴったりした小さい服ばかりデザインすると言って、あなたを非難する人たちにはどのように答えますか。

「問題は何を着るかということよりも、それをどう着るかということなのです。もし女性が自分自身であることに自信がもてないなら、私の服を着たところでいい気分にはなれないでしょうね。一方、サイズ0とはほど遠い女性、例えばヴィクトワール・ドゥ・カステラーヌのような、私のドレスが素晴らしくよく似合う人もたくさん知っています。それは単に、その人たちが自分の求めるものや向かっている方向性を知っているからなのです。彼女たちは自分に自信があるので、他人がどう思おうと気にもかけないのです」

──では、あなたの長年の成功の秘訣はなんだと思われますか?

「おそらく、自分の技を極めているということでしょうね」

──他のデザイナーたちがあなたのデザインをコピーしてキャットウォークに登場させ、自分のデザインだと言い張るのにうんざりしているのではありませんか?

「若いデザイナーが私の作品をインスピレーション源として利用するのは気になりません。むしろ逆に、そのような“黙礼”は称賛のしるしだと思っていますし、他人のスタイルを直接引用することから脱皮して、自分自身のスタイルを確立していくのを見守りたいと思っていますよ。その一方で、すでに地位を確立したデザイナーに剽窃されるのは大嫌いです。例えば、エルベ・リジュールを見てください。もし彼にほんのすこしでも才能があったなら、今でもまだ生き残って成果を上げていたことでしょう」

──プラダ・フループと共同で立ち上げる財団−あなたの大規模なヴィンテージ服のコレクションを納める予定だそうですが−の計画が実現する見込みはありそうですか?

「あなたもおそらくご存知でしょうが、私は特に急いではいません。この財団が実現しなかったとして、どんな違いがあるというのです?人は生きて、やがて死に、自分の生きた証を残し(残さないかもしれませんが)、時代は変わり、人々は先へと進んでいくものです。私は日常のレベルで人生を最大限有効に使おうとしています。友人や仕事を大切にして・・・他に何を望むことがあるでしょう?私は人生の中で、もう十分すぎるほどの幸運に恵まれてきました。美術館の陳列ケースに4着のドレスとフリルの付いたランジェリーを残すために、わざわざ無理をしなければならない理由などないでしょう」

──では、あなたのコレクションはその場合どうなるのでしょう?

「もしゴシップに耳を貸していたら、私がグッゲンハイム美術館のファッション版を作るつもりだと思っているでしょうね。実際にはそんなことはまったくありません。オークションで服を競り落とすのはとっくにやめてしまいました。マドレーヌ・ヴィオネ、ポール・ポワレ、クリストバル・バレンシアガ・・・こういったコレクションを売って、新しい情熱の対象であるインダストリアルデザインに打ち込むための資金源にしています。私がまだ地下に油断なく溜め込んでいる古いファッションは、自分が作ったものだけですよ。美しい家具は、私を元気にしてくれます。プライベートな空間や、新しく作ったホテルをお気に入りのデザインで飾るのを楽しんでいますよ。マーク・ニューソンの長椅子に寝転がったり、ジャン・ニューソンの長椅子に寝転がったり、ジャン・プルーヴェの「ガスステーション」の中で眠りについたりすることほど幸せなことはありませんね。まるでラブストーリーのように、何時間でも家具を見つめたり撫でたりして過ごせます。セラビー効果がありますね。それに、マーク・ニューソンをはじめ、アンドレ・プットマン、ロナン&エルワン・ブルレックといった多くのインダストリアル・デザイナーたちと親しくしているので、彼らの作品に囲まれていると何となく安心できるのです」

──噂によると、昔デザイナーのヴェロニク・ルロワを説きつけて段ボールの箱に入れ、階段の上から落としたそうですが。

「その通り。あなたも口を慎まないと同じ目にあうかもしれませんよ(笑)」

あとがき
今回の悲報を受けて、ちょうど10年前の、2007年8月号に掲載したアズディン・アライアのインタビューを、読み返し、その歯に衣着せぬ発言と冷静沈着な物腰、美意識の高さに触れ、改めて、唯一無二の存在を再認識しました。そして、マーク・ニューソンの黒い椅子が、先日訪れた、ドーバー ストリート マーケット ギンザ内のアライアのコーナーに置かれていたのを思い出しました。きっと素敵なデザインのベッドで安らかに眠っているのでしょう。ご冥福をお祈りいたします。

Azzdine Alaia
URL/www.alaia.fr
Instagram/@azzedinealaiaofficial

Interview & Text : Phillip Utz Photos : Stéphaen Gallois Translation : Moe Sakai

Profile

アズディン・アライア(Azzedine Alaia) チュニス生まれ。美術学校で彫刻を学んだ後、ギ・ラロッシュのアトリエでオートクチュールの手法を学ぶ。1980年自身のプレタポルテ・コレクションを発表し、彼のシグネチャーでもあるボディコンシャスなスタイルで一世を風靡。2000年にプラダ・グループと契約を結び、03年オートクチュール・コレクションでプレゼンテーションを発表し復活を遂げる。13年、パリ・ガリエラ宮モード博物館にて大回顧展開催。

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