英国人パフューマーのリン・ハリス(Lyn Harris)が手がける香りのブランド、「パフューマー・エイチ(Perfumer H)」。長年にわたり調香師として活動してきた彼女は、自身のブランドを通して、静かで個人的な香りの体験を表現してきた。今回は、調香師としての歩みやブランドの哲学、さらに「スタジオ ニコルソン(Studio Nicholson)」とのコラボレーションで誕生した新しい香り「ソープ」について話を聞いた。

記憶、風景など。香りに目覚めたきっかけと
「パフューマー・エイチ」が誕生するまで
——香りに目覚めたきっかけはいつ、何を通してでしたか?
「記憶をたどると、子どもの頃の嗅覚の体験にあると思います。祖父母と過ごした時間のなかで、料理の匂い、布の匂い、庭や火の匂いといった、自然や暮らしにまつわる香りに囲まれて育ちました。それが“嗅覚の旅”の始まりだったのだと思います。祖母の隣に座ると、いつも清潔な石鹸のような香りがしたことを鮮明に覚えています。家のシーツや部屋全体が、祖母の香りに包まれているようでした。一方で母は香水が大好きで、よく一緒にフランスへ旅をしましたし、父もいつもいい香りがする人でした。そうした人たちに囲まれて育ったことが、いま私がしているすべてに大きく影響していると思います。私の嗅覚は、そこから育まれたものなんです」
——あなたにとって香りとは?
「香りは私にとってひとつの芸術形式です。常に人がどう香るかに興味があります。ただ、私は誰かの真似をするのが好きではありません。香りは、その人のスタイルや人となりを表すものであってほしい。主張しすぎる香りではなく、その人と自然に調和するものであるべきです。香りは本来、人生にとってとてもポジティブなもの。でも行き過ぎると、どうしても商業的になりすぎてしまうことがある。常々、香りをもっと自然で美しいかたちで生活に取り入れる方法を提案したいんです」
——独自のミニマルな美学は、どのように見出したのでしょうか。
「原点は祖父母にあります。最近、スコットランドの祖父母の家を訪れ、姉と一緒に古い写真をたくさん見返しました。祖父はいつも同じような服装をしていて、同じシャツを大切に着続けていた。そうした姿から、シンプルさや長く使うことの美しさを学んだのだと思います」
——香りについてはどんな記憶があるのですか?
「祖父は庭仕事をするときはジーンズやオーバーオールを着て、家の周りを歩き回ったり散歩をしたり、ごく普通の毎日を過ごしていました。そして庭仕事をしていないときは、ズボンにサスペンダー、いつも同じツイードのジャケット。ポケットはいつも何かでいっぱいでした。それでも彼は、いつもとてもいい香りがしたんです。薪の火の匂い、土やピートの匂いが混ざり合ったような、自然の香り。そうした記憶が、いま振り返ると私の感覚のどこかにずっと残っている。とても印象的で、今でも思い出すと“かっこいい”と思える存在でした」

——香りのグループ分けによる製品展開のアイデアはどのように思いつかれたのですか?
「パリで学んでいた頃に教わった方法がベースになっています。師匠は、著名な調香師であるジャン・カール(Jean Carles)の理論に基づいた教育を受けました。香りをシトラス、フローラル、フレッシュウッド、そしてシプレやフゼア、アンバーといったダークな系統など、大きく五つのファミリーに分けるという考え方です。そこにスパイスやグルマンといった補助的な要素が重なり、ファミリー同士が交差しながら香りの個性が生まれていく。これが基本的な構造で、私はその枠組みを守りつつも、ときどき少しはみ出してしまうんですけれどね。この仕組みは香りを理解するための良い道しるべになります。世の中にはたくさんの香水がありますが、ただ流行を追うのではなく、自分がどの方向に惹かれるのかを知る手助けになリマス。『パフューマー・エイチ』というブランド名にも、そうした思いを込めました。香りの世界をやさしく解きほぐしながら、人が自分に合う香りを見つけるための入口になればいいと思っているんです」
——文化や芸術、文学、人々など、他にどのような文化的影響を受けてきたか聞かせてください。
「たくさんあります。最近だとエミリー・ブロンテ著『嵐が丘』をワザリング・ハイツ(Wuthering Heights)が手がけた映画。あの物語の舞台でもあるヨークシャーのムーアを、若い頃は友人たちとよく歩いていました。とても静かな場所で、どこかノスタルジックな感覚があります。そうした風景は、いまでも大きなインスピレーションのひとつです。ディビット・ホックニー(David Hockney)にも強く影響を受けました。彼は同じ地域の出身で、地元でも作品を見る機会が多かったんです。フランス文化にも惹かれていて、文学や芸術、そして旅を通して多くの刺激を受けました。音楽や映画の存在も大きいです。学生時代の友人の多くが映画や音楽の世界に従事し、そうした人たちに囲まれていたことも、いまに確実につながっていると思います」
——ご自身は、今どんな香りが好きなのでしょうか?
「『ローズ・ウィズ・インセクト』の香り。最近は、旅行のときにつけていたローズの香りも気に入っています。女性的すぎず、ちょうどいいバランスで。それから『ソープ』も大好き。今は、ほんの少しだけ『ソープ』の香りをまとっているんです」
「スタジオ ニコルソン」のニック・ウェイクマン
との協業で生まれた新しい香り「ソープ」

——コラボレーションを行った「スタジオ ニコルソン」のデザイナー、ニック・ウェイクマンとはどのようにして出会ったのですか。
「25年来の友人なんです。90年代後半から2000年代初めにかけて、特に親しくなりました。ロンドンのポートベロー・ロードのすぐそばで、ニックはセレクトショップをやっていて。当時ロンドンでストリートウェアを買えるほぼ唯一のお店だったのでよく通っていました。友人であり、同時にファンでもありました。その後、彼女は自身のブランドを始め、私も同じように『パフューマーH』をスタートしました。どちらも独立した立場で活動し、女性で、ずっと並走するように歩んできたんです。年に一度しか会えない時期もありましたが、いつも互いを支え合ってきました。人生への向き合い方や仕事への姿勢、哲学の部分でも、私たちはとても似ていると思います」
——ニックさんはご自身にとって、どんな存在ですか。
「象徴的な存在であり、きっと私も彼女にとってそうだったはず。久しぶりに会っても多くを語る必要はありません。ただお互いの近況を少し伝え合うだけで、自然と支え合っている感覚があるんです。興味深いことに、ニックはいつも香水を身につけていて、彼女らしい香りを持っている人なんです。だから私は無意識のうちに、ずっと考えていたんです。『ニックのためにどんな香りを作れるだろう?』と」

——「ソープ」の開発ストーリーについて教えてください。どれくらいの時間を要し、どんな工程を経て完成したのでしょうか。
「約18カ月かかりました。ニックはすべてを理解したいタイプで、とても深く関わってくれたんです。最初に3種類ほどサンプルを作り、ひとつに決まりかけたものの、途中で気持ちが変わって(笑)。年齢を重ねると、より困難を受け止められるようになるから不思議です。ニックには最初、彼女なりの香りのイメージがありました。でもそれは必ずしも本当に求めている香りではなかった。対話を重ねるなかで、彼女は、イタリアの理髪店のような香りが好きだと気づいたんです。そこから彼女の記憶や人生の時間をたどるように香りを探していきました。時間をかけて互いを理解しながら生まれたこの香りは、『スタジオ ニコルソン』の世界観を本当によく体現しています。大きな挑戦であり、まるで魔法のようなプロセスでした」
——石鹸の香りが出発点ではなかったと。
「話を深めていくうちに、もう少し複雑なイメージが見えてきたんです。ニックは、新しい生地が届いたときのコットンやパリッとした布の匂いが大好きだと話してくれました。その記憶と感覚をつなぎ合わせていく作業は、まるでジグソーパズル。理髪店の清潔感に、肌に触れる布の香りや、どこか懐かしいニュアンスを重ねていく。個人的にも、祖母が石鹸のような香りがする手作りの服を縫っていた記憶があって…。そうして生まれたのは、肌のための香り。ヴェールのように肌と服のあいだに漂い、やさしく人を包み込む。服にもほんのり残り、どこか懐かしくて心地よい余韻を残します」
——具体的にはどのような調合に仕上がっているのですか。
「アルデヒドを中心に、ほんの少しのオレンジブロッサムとシクラメン、さらにホワイトウッドの白木のようなニュアンスを重ねました。アルデヒドはとても興味深く、一方で扱いが難しい素材ですが、あえて多めに使い、香りの構成で遊んでみたんです。操作は簡単ではありませんが、その難しさこそが面白い。調香師として新しい領域に踏み込む感覚があり、とてもワクワクするプロセスでした」
——お二人とも英国人です。このコラボレーションにおいて、それはどんな影響がありましたか?
「共通しているのは、ある種の勇敢さ。枠にとらわれない発想ですね。感覚的に鋭さがあって、それがニックの素晴らしいところ。すべてはそこから生まれているんです。既成概念を打ち破りながら、新しい境地を切り開いていく。そんな少し風変わりな感覚が、私たちのあいだで独創的なものを生み出したのだと思います。それでいて出来上がったものは、とても日常的で実用的でもある。もしかすると、それは英国的な“礼儀正しさ”なのかもしれません」
——ファッションアイテムも展開していますね。
「シャツとパンツを選んだのは、ニックからの提案からでした。私は以前からボーイッシュな服が好き。昔から彼女の店でそういう服をよく買っていたんです。そこで冗談半分に『もし私のために服を作るなら、完璧なスケートパンツを作ってほしい』と言ったんです。すると本当にそれを形にしてくれて。実際に履いてみると、とても快適で、どんな服装にも合う。ポケットも多くて、実用的なところも気に入っています。シャツは、むしろ彼女のコンフォートゾーンを少し越えたアイテムでした。私がフランスで買った古いシャツをヒントに、香りのムエットを入れられるポケットをつけてくれたんです。生地は美しいイタリアンコットンを使っていて、肌触りがとてもいい。シャツはあまりアイロンがけしないので、洗ってそのまま着られるようなラフさも大事にしました。そして最後に、彼女が“究極のキャップ”も作ってくれたんです。どれも洗練されていながら、日常で自然に使えるアイテムになりました」
(左)軽やかなイタリアンコットンを用いたメンズライクなシャツ「シクラメン シャツ」¥69,300(右)イタリア製の柔らかなコットンで仕立てたツイルパンツ「コロン パンツ」¥74,800
鮮やかなブルーのコットンに「ソープ」の刺繍を施したベースボールキャップ「ソープ キャップ」¥18,700
——以前、とあるインタビューで「自分を奮い立たせてくれる人と働きたい」とおっしゃっていましたね。ニックさんからはどんな刺激を受けたのでしょうか?
「ニックを好きな理由のひとつは、人との向き合い方。ビジネスのやり方や、顧客との関係の築き方にもとても共感しています。小売という意味でも、感覚が互いに似ているんです。お店や顧客と過ごす時間をとても大切にしている。何かをするなら、楽しみながらやるべきだという考え方も同じです。ニックも服に対して強いこだわりを持っていて、人のライフスタイルに寄り添う服を作る。それがとても好きなんです。服は主張しすぎるものではなく、着る人の創造性や暮らしと自然に調和するべきものだと思っています。それから、ソニア・パーク(Sonia Park)も大切な友人のひとり。彼女からは、日本のものづくりやディテールへの向き合い方をたくさん学びました」
——「ソープ」が非常に好評な売れ行きを見せていることについて、どう感じますか?
「発売から間もないですが、感激しています。これまでで最も大きな反響を得ている香りになりました。やはり心から作ったものには、きちんと人が応えてくれるのだと思います。今はブランドも商品も溢れている時代でしょう?だからこそ、私はあまりコラボレーションをしないんです。でも、もしやるなら、本当に意味のあるものにしたい。そう思っています」
——正直、個人的には「ソープ」の香りがすごく新鮮に感じました。トレンドとなる香りはある傾向を持って似通ってくるものですが、「ソープ」はどれとも似ておらず、新しさを感じました。
「いまの香水業界には、さまざまな感覚が混在していると思います。たとえば甘いグルマン調の香りが広がる一方で、肌に寄り添う“スキンセント”のような、より親密な香りのトレンドもあります。特に若い世代やファッションに敏感な人たちが強く反応している流れですね。『ソープ』も、そうした“ライフスタイルに溶け込む香り”を意識しています。どんな場面にも自然に馴染み、違和感がない。ちょうど完璧なシャツやパンツのように、気づけばいつも手に取ってしまう存在です。たとえば、美しいグレーのセーターやお気に入りのフーディーのようなもの。着れば自然としっくりきて、手放せなくなる。そんな感覚の香りを目指しました」
通じ合う感性。リン・ハリスと日本の関わり
——前々から、日本に親しみを感じてくださっています。ブランドと日本との親和性を教えてください。
「初めて日本を訪れたのは25年前で、まるで恋に落ちたようでした。私と同じくらい細部にこだわる人々や国があるなんて信じられなかったし、本当に居心地よかった。日本の文化の細部への配慮や日常の中の美しさを大切にする感覚に共感するんです。私自身も、何をするにも細かいところまでこだわるタイプで、リサーチを重ねながらものづくりをしています。日本には友人もいて、アクセサリーブランド『シハラ』デザイナーのYutaのジュエリーもよく身につけています。彼のように、自分のスタイルや“ユニフォーム”のようなものを持っている人には、とてもインスピレーションを受けます」
——日本のどんな部分に一番親近感を感じますか?
「文化や歴史にも強く惹かれます。特に、人々の礼儀正しさと優しさです。そこには相手への深い敬意があって、とても心が温まるものだと思いました。家族や年配の人への接し方も本当に美しい。私の母も80代ですが、とてもエネルギッシュで、いつも大きな力を与えてくれる存在です。そうした家族との関係性にも、日本との共通点のようなものを感じています。儀式的な文化にも興味深いですね。香を焚くことや温泉や銭湯などの入浴する習慣など、日常の中にある所作をつい目で追ってしまいます。行為に意味があり、丁寧に向き合う姿勢は魅力的だと思います。次に日本を訪れるときには、そうした体験をもっと深く味わってみたいですね」
——東京や日本って聞くと、特に思い浮かぶ香りや風景はありますか?
「木々の香りです。特にヒノキやスギの木。特に杉の香りは、他の場所では感じたことがありませんでした。とても鮮烈で、深く記憶に残っています。苔にも強く惹かれました。日本の庭に広がる苔の風景には本当に圧倒されてしまって。実際、日本を訪れたあと、その記憶から“MOSS”という香りも作ったんです。日本の感覚に触れたことで生まれた作品ですね」
——自分にぴったりの香水を見つけるコツを教えていただけますか?
「大切なのは直感だと思います。香りを嗅いだ瞬間の最初の反応が、とても大事。もし気に入ったら、ぜひ肌につけてみてください。時間が経つにつれてどんな気持ちになるか観察します。何度も『これだ』と思ってその香りに戻ってくるなら、それはきっと自分に合う香りです。香水は髪や首筋、耳の後ろ、手首などにつけてもいいですし、私はセーターやスカーフにつけるのも好きです。布に残る香りもとても美しいですから。あとは気分も大切。時間と余裕を持って、探求する気持ちで向き合うことです。料理をしたい気分のときにマーケットへ行くように、香りも“探したい”という気持ちのときに出会うのがいちばんいいと思います」
——似た香りばかり選んでしまいます。もう少し複雑な香りに挑戦するには、どうしたらいいでしょうか。
「新しいことを学びたいという気持ちと同時に、少しだけ自分のコンフォートゾーンから踏み出すこと。香りを選ぶときは、心構えがすべて。まずはリラックスして、時間をかけること。周りのプレッシャーは気にせず、ただ香りを嗅いで、その感覚に身を任せてみてください。あとはどんな場面で使いたいのかを少し考えてみる。でもあまり考えすぎなくて大丈夫(笑)。香りは服と同じようなものです。私も靴を買ってから『この服には合わないかもしれない』と思うことがありますから。小さな失敗も含めて、楽しめばいいんです。ついつい“万能な一本”を求めてしまいがちですが、実際には香りも服と同じで、いくつか持っていたほうがいいと思います。その日の気分や場面に合わせて選べるほうが、ずっと自然で楽しいですから」
Perfumer H 伊勢丹新宿店
住所/東京都新宿区新宿3-14-1
(伊勢丹新宿店 本館4階)
TEL/03-3352-1111(代表)
URL/https://www.perfumerh.com
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Photo: João Sousa(portrait) Interview & Text: Aika Kawada
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